『やさしい風景』
〜恋はまだ始まらない〜
「あれ、どこ行くの?」
「う〜ん、ちょっと。」
言いながら教室を出る。向かう先は高等部と中等部の校舎の間、ちょっとした公園のようになっていて、春には桜が満開のスポットだ。
途中、購買に寄ってパンとコーヒー牛乳を買った。
校舎の外に出ると汗が噴き出した、夏はもうそこまで来ているらしい。
指定の場所に着くと、相手はすでに来ていた。
黒目がちの純和風美少女といった風で、なかなかかわいい子だ。校章からして同じ1年らしい。
おとなしそうな子だな、そう思った。
「ごめん、購買混んでて遅くなった。」
悪びれた様子も見せず、パンをかじりながら言うと、相手は一瞬驚いたような顔をしたが、
すぐにもとの緊張した面持ちに戻り、おずおずと尋ねてきた。
「あの〜、で、お返事は?」
「・・・うん?いや、噂で聞いたことあるとでしょ?わたしそういう趣味ないし、興味もないから、全部断ってるって。」
突っぱねるように言うと今度はコーヒー牛乳を一口飲む。
同時に真っ白な1通の封筒を差し出した。そういえばピンクのペンで文章が書かれていて読みにくかったことを思い出した。
「・・・そうですか・・・ごめんなさい。」
少女はかろうじてそれだけ言うと、封筒は受け取らず走り去っていった。
去り際に見た少女の目には涙が浮かんでいたようにも思えたが、どうでもよかった。
(その辺に捨てるわけにもいかんしなぁ)
封筒を再び胸の内ポケットにしまいながらそんなことを考えていた。
見上げると木の葉の間から夏が見えていた。
「お帰り、遅かったね。」
教室に戻ってくると午後の授業が始まる5分前だった。
次の授業は化学なので教室を移動するため、ほとんどの生徒はすでに教室にいなかった。
「先に行っててよかったのに。」
「ぶー、せっかく待ってたのにそんなこという、普通?」
「そういう意味じゃなくて、ほら、平家先生って遅刻には厳しいじゃん。」
「もういい。」
「あ〜ん、梨華ちゃん愛してるからぁ」
言いながら抱きつこうとするが、スルリとかわされる。
「もう、バカな事してると置いてくよ、いちーちゃん。」
梨華はスタスタと先に化学室に行ってしまった。その後姿を見ながら紗耶香は梨華のこと、そしてその他の女の子達の事を考えていた。
梨華とは中等部の入学式からずっと一緒だ。
これまで4年間一度として違うクラスになったことはないし、出席番号が近いこともあって席が近いなど何かと縁があった。
そして、何よりも多くの友人が思春期を迎え、近隣でかっこいいと有名な男子高校生、年上の教師、
そして、近場のかっこいい女の子、つまり、紗耶香に対して個人差はあるにせよ興味を示し、
接し方を変えていく中で、梨華だけは変わらなかった。
紗耶香はそんな梨華が好きだった。それは愛情などではく、友人としてだが。
それと同時に自分に対して過剰な愛情を示す相手、たとえば今日の昼休みの少女、に対して嫌悪に近い感情を抱いていた。
そうした嫌悪感がどこからやってくるものか、その時はまだ紗耶香自身にも分からなかった。
夏休み前のテストを約1週間後に控えた教室、しかし、昼休みともなるとテストなんかどく吹く風持参の弁当やパンを手に、
いくつかのグループに分かれて皆それぞれにおしゃべりの花を咲かせている。
「そういえばさ、カテキョやってるんだって。」
「うん、まあね。って言ってもお母さんの友達の娘さんに勉強教えてるだけなんだけどね。」
「それだってすごいよ、いちーの成績じゃ絶対無理だもん。」
「確かにいちーちゃんの成績じゃねェ・・・。」
言いながら梨華は視線をそらし、ため息をつく。その瞳には哀れみの色さえうかがえる。
日ごろの課題から始まり、長期休暇中の宿題、試験勉強、
果ては補習の課題までも中等部時代の3年間常に紗耶香の面倒を見てきた梨華としては当然の反応だった。
「うっ・・・あ、そうだ、それよりもどんな子、その生徒さん?」
勉強、それは学生の本分であると同時に、紗耶香にとって唯一と言っていい学生生活を通しての弱点でもあった。
自分の成績にまつわる話以外なら何でもいいと思い、とっさに話題を変えたのだが、
梨華の反応は紗耶香が予想だにしないものだった。
「それがねぇ、ひとみちゃんっていうんだけど、かわいいのよ。
顔もなんだけどいちーちゃんの1コ下とは思えないくらい初々しいって言うか、ああいうのピュアって言うのよ。」
(いちーの1コ下ってことは梨華ちゃんの1コ下でもあるんだよ。)
そう思ったが、頬を上気させ、目を輝かせて興奮気味に話す梨華のただならぬ様子に気圧されたため、口には出せなかった。
「でね、この前ひとみちゃんの家行ったときね。」
そこまで言うと梨華は周りに人の気配がない事を確認してから声を潜めて続けた。
「好きだって言われたから、キスしちゃった。」
「・・・うそ・・・だって女同士でしょ?」
「でも、ラブラブだよ。」
ウズラの卵をフォークで口に運びながら、梨華は臆面もなくそう言ってのけた。
紗耶香はガラガラと何かが崩れ落ちる音を聞いた気がした。
このところ教室に行くのが億劫だった、1年生の教室が3階にあるから、それもある、しかし、
それよりもこの前の一件以来どうも梨華の顔を見て話すのが辛いのだ。
(ふぅ〜、またか。)
教室に着き、自分のロッカーから教科書を出していると見覚えのないブルーの封筒が出てきた、
封筒の右隅では見たことのあるマスコットがこっちに向かってウィンクしていた。
(最近続くなぁ、こっちはこの前の梨華ちゃんの告白でいっぱいいっぱいだってのに。)
先日の昼休み、梨華の『わたし今彼女います』発言は紗耶香にとってショックだった。と、いうか今も紗耶香を混乱させている。
今までは梨華が他の子達と違って、自分に純粋な友情を示してくれる友人だから梨華の事が好きだと思っていた。
しかし、梨華は家庭教師先のひとみちゃんとやらが好きだという。
つまり、梨華は俗な言い方をすれば同性愛者であり、いつ自分に恋愛感情を求めてきてもおかしくない、
自分が今まで苦手としてきたタイプの女の子である。しかし、というか、当然自分は今でも梨華のことは嫌いではないし、
むしろ、好きである。
(う〜ん、やはりいちーの中で梨華ちゃんは特別なのか?それともやっぱりいちーも女の子が好きな女の子なんだろうか?)
先日の梨華の告白以来、紗耶香は以前よりも「女の子達」に対してナーバスになっていた。
今まで自分が当然のように否定してきたものが、もしかしたら自分の方が間違っていたのではないか、
そんなことばかり考えていた。
こんな状態の時にまた女の子からであろうラブレターをもらってはたまらない。
「(でも、まぁ、一応行ってあげるくらいはしないとね、えーと、放課後に屋上か)」
そうつぶやきながら紗耶香はいつものように、封筒を胸の内ポケットにしまうと、1時間目の用意をして席についた。
その日梨華と交わした会話はそのあとの「おはよう」だけだった。
放課後、屋上に上がるといつものごとく相手はすでに紗耶香のことを待っていた。
どうやら今回は上級生、校章からして2年生らしい。
先日の1年生とは対照的に茶色に染め上げた肩までの髪がよく似合う、大人っぽい雰囲気の子だった。
「どうも。」
無愛想に紗耶香は言った。
「読んでくれた?」
「ええ、一応読みましたけど、先輩聞いたことあるでしょ、わたしこういうの1回もOKしたことないって」
「じゃあ、今回も・・・」
「まぁ、そういうことです。」
会話は会話と呼べないほど淡白なものだったが、紗耶香にとっては珍しいことではない。
今回は物分りのいい相手で助かったと紗耶香は思っていた。
しかし、紗耶香の予想を裏切って、唇をかみ締めていた相手は食いついてきた。
「ねぇ、なんで?あんたくらいなら言い寄ってくる子10人、20人じゃないでしょ、何で1回もOKしないの?」
(・・・ウザイ)
怒気のこもった声でわめき散らす相手に紗耶香が感じた率直な感想だった。
「それはね、先輩、わたしが女だからですよ、わたしは女の子と付き合う気なんかない、女の子なんて恋愛の対象じゃないんですよ。
っていうより気味悪い、こっちは友達だと思って付き合ってるのに、突然キスしたいとか言われたたら引くでしょ?」
紗耶香は自分でも驚くほどスラスラと相手に言ってのけた。言いながら自分自身驚いたほどだ。
「・・・最低。」
それだけ言うと相手は泣きながら階段を下りていった。
(まずったかなぁ)
紗耶香にしてもあそこまで言う気はなかった、あえて理由を言うなら機嫌が悪かったから、相手の言う通り最低だ。
梨華だけは違うと信じていた思いが裏切られ、やり場のない葛藤をたまたま目の前にいた相手にぶつけてしまったのかもしれない。
大きなため息をつく、疲れていた。
優しくできない自分がひどく醜い生き物に思えた、彼女が何をしただろう、ただ自分の事を好きといってくれただけなのに、
自分はあんなことをするほど彼女の事が嫌いなのか・・・それどころか彼女の何を知っていると言うのだろうか。
(・・・あっ、今回も返せなかったなぁ。)
少しばかりの後悔と、けだるさを抱えながら胸の内ポケットのあたりを触っていると、突然天から脳に響くような声がした。
「あんた最悪だねぇ。」
見上げると屋上の更に上、貯水タンクが設置されている場所から声がする。
「よっと」という掛け声とともに飛び降りてきた少女は紗耶香より20センチは背が低いのではないかと思うほど小さく、
髪の毛は金髪に染められていた。
愛嬌のある顔、それが最初の印象だった。
「別に覗き見しようとか思ってたわけじゃないよ、矢口が寝てたら、突然そっちが始めたんだからね。」
「別に気にしませんよ。」
できるだけ素っ気無く言ったつもりだった。
どうやら先ほどの相手と同じ2年生のようだ、背は低いが紗耶香に噛み付くように話してくる。
「それだよ、その態度、相手はすごく一生懸命に告白してんのに『わたしには関係ありません』って態度、それ良くないよ、
もっと相手の気持ちをさぁ・・・」
「矢口さんでしたよね?」
「えっ、矢口名前言ったっけ?」
「はい、今も自分で言いました。」
「あっ、ホントだ、キャハ。」
紗耶香は相手が黙るのを待って、一刀両断してやるつもりで言い放った。
「関係ないですよね、わたしが誰に何をどういう風に言おうと、あなたには。」
それだけ言うと紗耶香は颯爽とその場を後にした、完全勝利を確信しながら。
しかし、紗耶香の背中に逆転弾が降り注いだ。
「おまえ、恋愛したこと、人を好きになったことないだろ!」
紗耶香は何も言い返せず、ダメージを受けたことを悟られないように屋上を後にするのが精一杯だった。
だから、帰りの階段にもう1人、すらりと背の高い少女がいた事にも気づかなかった。
アスファルトからの熱気が空気をゆがめる、聞こえるのはセミの声ばかりだ。
(あ〜、あちぃ)
昼下がりの公園を整ってはいるが、非常に不機嫌な顔で少女が歩いていく。
少女といっても、細めの黒のスラックスに無地の白いシャツの組み合わせは一見すると端正な顔立ちの少年にも見える。
(うん?あの後姿は・・・ピンクのキャミか、間違いないな)
「梨華ちゃ〜ん。」
呼ばれた少女も振り返り手を振る。
「何してんの?」
「今から家庭教師のなの、1週間ぶりなのよ。」
そう言うと梨華は嬉しそうに微笑む。
(ああ、例のひとみちゃんね。)
紗耶香は一瞬で梨華の笑顔のわけを理解した。
「ところで、いちーちゃんこそそんなカッコでどこ行くの?」
「ああ、いちーはこれからバイトだよ。」
「言ってた喫茶店?」
「うーん、カフェバーといってくれるかな。」
「それにしても男の子みたいなカッコだね、最初誰だかわかんなかったよ。」
「いや、まぁ、制服みたいなもんで、いろいろあってね・・・」
最後は言葉を濁す。
それにしても気に入らないのは、この暑さよりも梨華の態度だ。
梨華とは長い付き合いだが、最近の梨華は今までの紗耶香が知っている梨華と違う。
昨日までは『テスト中は1人でやりますって言って会ってくれないのぉ』とか、本当に悲しそうな顔をしていたかと思うと、
今日はひさしぶりの家庭教師だと、今まで紗耶香が見たどの笑顔よりもキラキラした笑顔で横を歩いている。
例の『ひとみちゃん』の事で一喜一憂する梨華を見るとなぜかは分からないが、腹立ちというよりは、一抹の寂しさのようなものを感じる。
別にこの前言われた『おまえ人を好きになったこと〜』を気にしているわけじゃない。
わけじゃないが・・・梨華の気持ちが理解できないのも事実だ、これがもし相手が男の子だったら心から祝福できたのだろうか・・・
「じゃあ、わたしこっちだから。」
気がつくと公園の出口だった。梨華と別れるとバイト先の『C'afe C'est si Bon』、通称ボンに向かった。
「だからぁ、寒すぎてもダメなの、この季節はエアコンの調整が難しいんだからリモコン返しなさい!」
「嫌や、暑いもんは暑いねん、大体寒いんやったら外出たらええねん。」
店につくといつもどおり、オーナーとオーナーの姪っ子、それにその友達がいた。
「あっ、いちー、聞いてや、このくそ暑いのにおばちゃんがクーラー切るゆうねん。」
「誰がおばちゃんよ、彩姉ちゃんでしょ。」
「こんだけ歳離れとって、姉ちゃんて、あつかましいわ。」
「なんか言った、亜依!それより紗耶香からも言ってよ、この子これだけエアコン効かせてまだ暑いって言って聞かないのよ。」
この2人に同時に睨まれながら、どちらかにつくことなんかできるだろう、いや少なくとも紗耶香にはできなかった。
「いやぁ、自分今外から来たばっかりでよくわかんないっス、そうだ、ずっと一緒にいる辻に聞いてみればいいんじゃないっスか?」
さっきから我関せずと一番奥のカウンター席で、コーラをすすっていた少女はビクッとしてこっちを見る。
その目には明らかに紗耶香に対する非難の色がこもっていた。
「そうや、辻あんたもクーラー切ったら暑いやんなぁ?」
「そんなことないよね、辻ちゃんはさっきからコーラも飲んでるし、暑くないよね?」
言いながら彩は辻のコーラを見る、いつものように遊びに来た辻に、彩がこれまたいつも通り出してやったものだ。
勝負は決まった。
「・・・さみーのれす・・・」
ピッ、という音とともにエアコンが切られる。
「辻の裏切りもん。」
「違うのれす亜依ちゃん、ほんとに悪いのはいちーさんなのれす・・・。」
そんな2人の会話を聞こえない振りをしながら紗耶香はカウンターの下をくぐって、厨房に消えていった。
それにしても・・・
紗耶香は亜依の今日の衣装にため息をつく。
「これからは喫茶店も個性の時代」を合言葉にオーナー彩の独断でバイトそれぞれにコンセプトとそれにあわせた衣装が提案される。
ちなみに紗耶香の場合は『中性の美』らしい。
そして、亜依はと言うと乙女チックな物が多い。
今日も今日とてオレンジと白の縦じま、フリルつきワンピース、小道具はレースの髪飾りだ。
しかし、紗耶香のボーイッシュな衣装はともかく、亜依のかわいい系衣装は彩の予想に反して失敗のような気がする。
見た目はともかく、そのフリフリの衣装を来た亜依が常に「なんでやねん」「やかましいわ」などとわめく姿はこっけいを通り越して
前衛的ですらある。
それでも服作りが趣味である彩にとって、亜依が格好のモデルである以上こうした姿を今後も見続けることになりそうだ、
何より、当の本人がこうした衣装をいたく気に入ってしまっている。
「なぁなぁ、いちー、うちの今日の服どう?かわいいやろ?うちとしてはホンマはオレンジよりピンクの方が良かってんけどな。」
「小道具はののの提供なのれす。」
「・・・うん、かわいいよ・・・」
「さーて、8時かぁ、子供は帰ろッか。」
彩は昼間のカフェメニューから、バーのメニューに換えながら亜依と紗耶香にあがるように言った。
「おーい、のの帰れって言われとぉで。」
「亜依、あんたもでしょ、試験近いんだから勉強しないと実家のお母さんに言いつけるよ、
あんたも成績悪くてもいいから紗耶香みたいにちゃんと高等部にはいきなさいよ。」
「ちょっと、彩姉ちゃん、それは失礼やわ、いちーより成績悪いなんてありえん、いちーと比べんといて。」
カウンターの会話を聞こえないふりをしながら、紗耶香はエプロンをはずして帰り支度を始めていた、
しかし、その夜はどうしたことかいつもより格段に客の入りが良く、そのうえ夜のバイトが急遽来れなくなってしまったため、
結局さやかは閉店まで手伝うことになった。
「ゴメンね、紗耶香、8時までの約束だったのに、ちゃんと残業つけとくから。」
客もみんな帰り、閑散とした店内でグラスを拭きながら彩は済まなそうに紗耶香に言った。
「いや、いいっスよ、気にしないでください。」
「気にするよ、試験も近いのに、限りなく低空飛行の紗耶香の成績が墜落したらと思うと・・・」
「・・・う、いや、ホント成績も大丈夫ですから、今回はちょっとずつやってますから。」
嘘である。
「ふ〜んじゃあ、最近紗耶香が暗いのは成績のせいじゃないんだ?」
彩はさっきまでの会話とは明らかに違うトーンで切り出した。
(かなわないなぁ)
「ええ、まぁ、ちょっと・・・」
「言える事?」
「悩んでるっていうか、軽くパニクってる感じですね。」
紗耶香はここ最近の出来事を彩に話した、梨華に彼女ができたこと、それについて自分が感じていること、
あと、矢口に言われた事に関しては言ってもよかったが、なぜかやめた。
「なるほどねぇ、ねぇ紗耶香、あんた本気で恋したことないでしょ。」
心臓が飛び出すかと思った、紗耶香は最近の気になる出来事を話しただけなのに、
彩はこの前出会った少女、矢口と同じことを言った。
「ふ〜ん、図星か。なんか前からあんたの話聞いてるけど、
そのなんていうか言い寄ってくる子達に対して愛情がなさ過ぎるっていうか・・・」
「ちょっと、勝手に決め付けないでくださいよ、いちーだって今まで好きな人くらいいますよ。」
「あっ、そう、んじゃ、それは誰?で、いつ?」
「・・・そ、それは・・・大体なんでそんなこと彩さんに言わないといけないんですか」
最後は少し叫ぶようにしてその時の会話は終わった。
紗耶香が彩に言ったことは嘘ではない、久しぶりに会った小学校時代の男友達、教育実習で来た大学生、駅前の雑貨屋の店員、
今までにいいなっと思った人は何人かいた、ただ、彩と話している時にはそのうちの誰一人として思い出せなかったのだ。
その夜は、帰り際に「まぁ、のんびりいきな、紗耶香にもわかる時がくるって」と言った彩の言葉が耳から離れなかった。
テスト期間に入った数日後から、梨華の様子がおかしい。
別に病気とか元気がないわけではないが、なんというか、妙にテンションが高かったり、そうかと思うと眠たそうな顔をしていたり。
最初は勉強疲れかと思っていたが、どうも違うらしく、なりより、毎日のように話していた『ひとみちゃん』の話を前ほどしなくなった。
深刻な悩みだったりしたら嫌だなぁとも思ったが、今日でテストも終わり、
明日からは夏休み前の休校日なので今日は思い切って話しかけてみることにした。
ついでに話したいこともあったし。
「あ〜、終わったぁ!」
「ほ〜んと、でもこれでやっと夏休みだね。」
「ねぇ明日休みだし、ひさしぶりにお昼食べて帰らない?話したいこともあるしさ。」
「う〜ん、ゴメン、今日もたぶん用事あると思うから・・・」
「何それ?たぶんある用事って?」
「話すと長くなるんだけど、今度ちゃんと言うから、ほんとゴメンね。」
「まぁ、いとしい梨華ちゃんが嘘つくとも思えないし、いいよ。」
「ほんとゴメンね、いちーちゃん、じゃあ私帰るね、また電話するから。」
言いながら駆け足で梨華は教室を出て行ってしまった。
(まぁ、あとで電話すればいいか)
そう思い直すと紗耶香も教室を後にし、校舎の出口に向かった。
しかし、途中の廊下に人だかりができているのを見つけてつい紗耶香も足を止めて覗き込んでしまった。
生徒達の間ではクールという評判の紗耶香だが、実は結構噂話なんか好きだったりする。
どれどれと、普段なら連絡事項やイベントのお知らせが張られている掲示板に近づいて紗耶香は卒倒しそうになった。
そこに張られていたのは数枚の写真、そのすべてに紗耶香が写っていて、一緒に写っているのは梨華やバイト先のオーナー彩、
そして亜依、その他にも仲のよい先生やクラスメートと手をつないだり、肩を組んでいるものばかり、
そして、それらの写真の上には『これがタラシ市井紗耶香の正体だ』とキャプチャーがつけてあった。
そこから先の事はあまり覚えていない、掲示板の写真を引き剥がし、側の階段を駆け上がったのだろう、
気がつくと紗耶香は屋上でさっきの写真を握り締めていた。
(・・・だから・・・だから、女の子は嫌いなんだ・・・)
中等部に入った当初から紗耶香には注目が集まっていた。
そして、本格的に騒がれるようになったのは中学生活も残り1年となった春の頃からだった、その頃から小さな嫌がらせはあった、
その多くが紗耶香がふった子の逆恨みだと言う噂だったが、紗耶香は別段気に留めることもなかった。
しかし、今回のこれはかなりこたえた。こんなあからさまで下劣なものは初めてだった。
いつのまにか頬を熱いものがつたっていた。
「あれっ、泣いてんの?」
興奮しすぎていたせいか、人が近づく気配にまったく気がつかなかった。が、泣いているのを見られたのは不覚だった。
紗耶香は袖で涙をぬぐうと平静を装って応える。
「そっちこそ、いつもいつも屋上で何してるんですか、高い所が好きなんですか?」
「どういう意味だよ、矢口はダンスだよダンスサークル、君も入る?」
「入りません、それに君じゃなくて市井紗耶香って名前があります。」
「あぁ、タラシの?」
本当におかしそうにそう言った矢口を、紗耶香はキッと睨み返した。
すると、矢口は紗耶香が握り締めているものを取り上げてつづけた。
「紗耶香さぁ、こんなの気にすんなよ、どうせ誰かの嫌がらせなんだから、それにおまえも悪いんだしさぁ。」
「それは泥棒に入られる人が、無用心だって理屈ですか?」
矢口を睨みつけたまま怒りを込めた口調で言う。
しかし矢口はそれに動じることもなく、一呼吸おくと首を振りながら話しはじめた。
「違う、人って傷つけられたら、どうしても仕返ししたくなる衝動が生まれちゃうんだよ。
まぁ、たいていの人は理性とかでそれをおさえるんだけどね。
紗耶香が告白に応えてるところ見たのはこの前の1回だけだけど、あんな言い方じゃ相手傷つけるよ。」
「でも、あたしは傷つけようと思ってやってない、でもこの写真貼ったやつは明らかにわたしを傷つけようとしてる。」
「一緒だよ、傷つけられた方は相手につもりがあろうがなかろうが傷つくんだよ。
それにあんたは、自分を思ってくれる相手の気持ちを考えたことある?」
言われて初めて気づいた。
今まで何度言い寄られても、わずらわしい以外の感情を持ったことはなく、相手が自分のどこを、
なぜ自分を好きだと言ってくれているかなんて考えたこともなかった。
それどころか、他人からの好意を事務的に拒絶することが常になっていて、
自分自身、「好き」の意味がいつのまにか解らなくなっていた。
今日受けたような行為を、今まで自分は自分をしたって近づいてきた人たちに繰り返していた、
そう考えると吐き気がした。自分のしてきたことはなんだったんだろう・・・
エゴ。そんな言葉で言い訳がつくとはには到底思えなかった。
「まぁ、そういうことだよ、確かに今回の件だけ言えばあんたは被害者かもしれないけど、
考え直すには良いきっかけになったんじゃないの。」
そう言うと矢口は音楽を鳴らして練習をはじめてしまった。
(わたしはどこから考え直せばいいんですか)
それは言葉にならなかった。
結局その日のバイトは散々だった、オーダーは間違える、味付けは失敗する、
割った食器類の数は入店当初の最高記録5枚タイだった。
「なぁ、彩姉ちゃん、いちーどうしたんやろ?」
「う〜ん、たぶん市井は今さなぎなんだよ、だから、うまく動けないんだよ。」
「なんやそれ?よう分からんわ。」
「あいぼんにはまだちょっと難しいのれす。」
「なんや、ののえらい偉そうやな、その頭で理解できてんのか。」
「ふふん、頭で理解することじゃないのれす。」
(4時かぁ・・・)
結局バイト先には2時間もいなかった。あまりのダメっぷりに彩が見かねて早退させたのだ。
(こういう時に時間持て余すと鬱になるんだよねぇ)
いいながら携帯を取り出すと梨華にかけてみる。
(さっき電話するって言ったから大丈夫だよね)
「あっ、もしもし、梨華ちゃん?いちー。
あのさ、今バイト終わったんだけど、今から会えない?
えっ、なに?ねぇ、梨華ちゃん泣いてない?
うん、大丈夫って、ちょっと切らないでよ、話しようよ」
話はこうだ、梨華は先日テスト期間中にひとみの家に行ったところ、ちょっとしたことが原因で気まずい雰囲気になり、
その日はそのまま帰った。
ところが、次の日からどういうわけかその前の日に知りあったひとみの友達が毎日家に勉強を教えて欲しいと来るようになり、
梨華もその一生懸命さに惹かれて楽しく教えていた、しかし、さっきその事がひとみにばれて、ひとみがひどく落ち込んでいるらしい。
梨華にしてみれば自分がひとみを裏切ったと思っているらしく、そんな自分が許せない、と、まぁこんな具合だ。
(事情はわかったんだけどさぁ、今ちょっとそういう話題勘弁してほしいんだよね、
どっちかっていうとわたしが話聞いてほしいし、それに話聞いてる限り別に梨華ちゃん悪くないし、
気にし過ぎだって。)
「う〜ん、話はわかったけど、とりあえずもう1回会って話してみるしかないんじゃない。」
なんだか女性誌の恋愛相談よろしく、適当なことを言ってしまったが、
梨華はそれを聞いているのかいないのか、「うん」ばかり言っていた。
休校日も終わり、3日ぶりの学校だが、紗耶香の心は冬の空のようにどんよりと曇っていた。
あれから梨華の事はずいぶん心配だったが、なんだか気まずくて電話はしていない。いや、
それよりも、自分の中で整理しきれないものが溢れそうで、梨華の事を気にする余裕がなかった、と言う方が正しいかもしれない。
それでも教室に入り、梨華の後姿を見つけると精一杯明るい声で声をかけてみた。
「おはよう、梨華ちゃん。」
「あっ、おっはよー、いちーちゃん。もう、3日もいちーちゃんに会えなくて寂しかったよ。」
言いながら3日前まで電話口で死にそうな声を出していた親友は、自分の席から両手を広げて満面の笑みで紗耶香を迎え入れる。
人の心配をよそに完全復活している梨華を喜ばしく思いながらも、無意識に顔が引きつる。
「り、梨華ちゃん元気になったんだ、よかったね。」
「うん、それがねぇ、聞いてよ。」
それから梨華の話はチャイムが鳴って先生が教室に来るまで延々とつづいた。
しかも、話の中には今まで出てこなかった『真希ちゃん』が増えていた。
この1週間ばかりの間、梨華には驚かされてばかりだった。
彼女ができたと言い、その彼女のことでコロコロと表情を変える梨華。
けんかをしたと言っては、電話口でこの世の終わりのような声を出す梨華、
そして今は自分の目の前で本当に幸せそうに微笑みながら彼女とその友達のことを話す梨華。
そんな梨華の顔を見ていると、涙が出そうになる。
誰に対する涙なんだろう、梨華のように幸せになれなかった、たくさんの女の子達に対するものなのか、
そんな女の子達をつくりだしてきた自分へのものなのか・・・それとも、もっと違う、もっと切なくて、あたたかい涙かもしれない。
そんな気がした。
(ふ〜)
HRと掃除を済ましたが、バイトまでまだ少し時間があるので、屋上で時間をつぶしながら大きなため息をついてた。
ちなみに梨華は「急ぐから、ごめんね」と有無を言わさぬスピードで帰ってしまった。
HRでテストの答案を渡され、これで今期の成績は大体わかった。紗耶香にしては良いほうで、補習もぎりぎりだった。
そう、ぎりぎりで補習を受けることになった。
「よっ、少年、なに色っぽいため息ついてんの?」
待ち人来たるである。
「あぁ、先輩、今日も練習スっか。」
「うん、今日も、明日も、あさっても、夏休みもずーっと踊るよ。」
言いながら矢口は軽くステップを踏んでみせる。
「ふ〜ん、ダンス好きなんスね、先輩。」
「あのさぁ、その先輩ってやめてくんない、矢口、もしくはまりっぺ、あっ、姫でもいいよ。」
「わかりました、矢口さん。」
それを聞くと矢口は「ぶー」とか言いながらクルリとターンして向こうを向いてしまった。
遠くの空に雲の峰が見えていた。
夕立になるかもしれない、そんなことを考えていた。
「矢口は好きだよ。」
突然つぶやくようにそう言った真里の声は、とても澄んでいた。
この数日、「好き」という意味についてずっと考えていたがわからなかった。
相手を思いやること?相手を気に入ること?
それならなぜ自分はそれを受け入れようとしなかったのか?
相手が女の子だから、違う、怖かったから。
昨日までの友達が、友達でなくなる。
今までの関係でいられなくなる・・・
でも、それよりいい関係になれるかもしれない、なぜそれを自分はその子達に望まなかったのか・・・
そのヒントがここにあるような気がして、だから今日もなんとなく屋上にやってきた。
ズバッと思ったことを何でも言って、紗耶香に最初に「好き」について考えるきっかけを与えてくれた人。
そして、今紗耶香が最も話していたい、見ていたいと思う人、その人がいる屋上に。
「な〜に赤い顔してんだよ、ん〜。」
言いながら真里は紗耶香の顔を覗き込む、が紗耶香はそんな真里の目を直視できない。
「はは〜ん、あんた、もしかして・・・
矢口が好きっていたのは、ダンス!なに愛の告白と勘違いしてんだよ。」
「へっ・・・」
紗耶香は世にも間抜けな顔をして矢口を見る。やられた、と思ったがすぐにいつものクールモードに戻って言い返す。
「なに言ってんですか、そっちこそ。いちーが考えていたのは夏休みの補習の事です。
ああ、夏休みなのになんで学校来なきゃいけないんだろう、ってね。
そっちこそ自意識過剰じゃないんですか。」
「ほ〜、みんなの人気者の紗耶香ちゃんは真っ赤な顔して、
恋する乙女のまなざしで補習の事考えるんだ、よっぽど好きな先生でもいるのかな?」
再び紗耶香の顔を覗き込みながら真里は意地悪く訊くが、紗耶香はまだ真里の顔を見ることはできない。
「いませんよ、そんなもん!大体わたしが好きなのは・・・」
興奮しすぎて、余計なことまで言いそうになり、慌てて口をつぐむ。
「『わたしが好きなのは』の続きは?」
「・・・うるっさいなー、関係ないでしょ、大体先輩こそ好きな人いるんですか?」
言ってしまってから後悔した。
ここでもし、誰かの名前を出されたら芽生えかけた真里への好意の念が打ち砕かれる、そんな恐怖を直感的に感じたからだ。
「矢口?そうなぁ・・・矢口は素直な子が好き、紗耶香と違って。」
待っていた答えは予想を越えてショッキングなものだった、特定の名前こそ出なかったものの、
自分以外なら誰でもいいと言われたのと大差ない。
(うっ、うっ、終わった・・・なんか始まってもいなかった気がするけど。)
こうして紗耶香がはじめて抱いた友情以上の思いはシャボン玉のようにはじけて消えてしまった・・・
ショックを隠し切れず、完全に目が死んでいる紗耶香を見ながら真里は近づいて耳元でささやいた。
「まぁ、でも最近、特に今日の紗耶香見てると最初に会ったときと比べてずいぶん良くなったと思うよ、
まぁ、この調子で精進すれば、そのうち矢口も振り向くかもね、キャハ。」
・・・どうやらまだシャボン玉はもう一度つくれそうだ。
「・・・な、なにを・・・」
恥ずかしそうになにやらモゴモゴ言ってる紗耶香を尻目に真里はラジカセのスイッチを入れると、さっさと練習をはじめてしまった。
その時は完全に自分が真里の手の上で踊らされている事にも気づかず、先ほどのショックと、ほっとしたことで呆然としていた。
だから、「これから大変だよ。」真里と初めて会った時にすれちがった少女が、帰り際紗耶香にそう言ったが、
今回も紗耶香はそれに気づかなかった。
「ねぇ、あいぼん、いちーさん気持ち悪いのれす。」
「そうやな、ごっつい機嫌ええのはわかるけど、あれは機嫌良過ぎやで。」
バイトに来た紗耶香は前回とは打って変わってきびきびと仕事をこなしていた。
ちょっと周囲が引くほどに・・・
それを見ながらカウンター席では、有名ではあっても現実にはまずお目にかかれない、
例のメイド服を着た加護とその友人辻が加護の頭に大きな赤いリボンをつけながら呆れ顔で観察していた。
「ああっ、歌を、歌を歌い出したのれす。」
「おっ、今度はターンしたで、ターン。」
その日紗耶香は、目に耳に皆を楽しませてボンをあとにした。
朝のニュースでは今年何度目かの『この夏1番の暑さです』のフレーズが流れていた。
(ふ〜暑い、何してんだろわたし・・・)
夏休みだというのに制服姿で学校へ向かう紗耶香の姿があった、その横を女子中学生だろうか、少女が2人元気に駆けていく。
(この暑いのに元気だなぁ、ってまぁバカさ加減じゃわたしも変わらないか)
夏休みに入り数日、補習も昨日で終わり、実質今日が紗耶香にとって夏休み初日なのだが、
勉強道具一式とジャージの入ったかばんを抱えて紗耶香はある場所へと向かっていた。
(「あれっ、矢口さん、今日も練習っスか、いちー?
ああ、いちーは昨日まで補習で、今日はうっかりしてて間違えてきちゃったんですよ、いやぁ、
教室行って誰もいないからびっくりしましたよ。まったくついてないっス。」)
紗耶香はさっきから何度となく繰り返した練習をまた始める。
(やっぱ、「ついてないっス」言わない方が自然かなぁ)
そんなことを考えていると学院の校舎が見えてきた。
今日もあの屋上で仲間と踊っているであろうあの人目指して、紗耶香は歩く。
けれど、なぜ自分がそんなことをしているのか紗耶香は前ほど考えなくなっていた。
今はただ会いたい人がいるから、それだけで理由は充分だった。
ただ1つ紗耶香には確信があった。
今度もし自分に好きだと言ってくれる人が現れたら、今までの人の分もその気持ちを受け止めないといけない、
それはとても大切なことのはずだから。
〜夏が終わるまでは〜
(はぁ〜、ねむいなぁ〜。昨日遅くまで起きてたからなぁ)
8月もそろそろ終わろうかというのに、最近はますます暑くなっている気がする。
そのせいか寝苦しくて昨日もついつい遅くまでテレビを見てしまった。休み中の学生を狙ってか最近は深夜まで面白い番組が多い。
睡魔に翻弄されながら、昨日のテレビの記憶を反芻していると、突如甲高い声で現実に呼び戻された。
「できた?」
「・・・まだです。」
まだ半分も解けてない問題集に視線を落として、おずおずと応えると、
まったくしょうがない子ねぇ、といった顔をして声の主はむこうに行ってしまった。
「ひとみちゃんの方は?」
「・・・もうちょっとです。」
どうやらひとみちゃんも同じようなものらしい。
近頃梨華ちゃんは厳しい。夏休みが始まった頃は1つ単語覚えるたびに、1つ公式を理解する
たびに、それはもう自分の事のように手を叩いて喜んでくれていたのに・・・
(こんなことならやっぱりあの時断ればよかった)
数日前ことだ、アタシとひとみちゃんは、この辺では有名な予備校の教室に2人で並んで座っていた。
公開模試というやつを受けるためだ。アタシは正直乗り気じゃなかったけど
「最近真希ちゃんすっごく頑張ってるから、自分の実力を知るためにもこれはチャンスだよ。」
言いながら予備校のチラシを笑顔で見せる梨華ちゃんに逆らえるはずもなく、渋々そのテストを受けに行ったのだ。
テストは英語をはじめとした5科目、500点満点で丸1日かかる大掛かりなものだったそのうえ、
事前の登録で志望校への合格率まで5段階で評価してくれる優れものだ。
しかし、その評価がいけなかった。
5段階評価を見た次の日から、梨華ちゃんは突如スパルタ家庭教師へと変貌してしまったのだ。
ちなみにアタシはC評価、ひとみちゃんはB評価、朝高志望でC評価なら全体的にみて中の上と言えるだろう。
しかし、その評価コメントを見た梨華ちゃんは押し黙ってしまい、突如宣言した。
「わたし、今まで皆で楽しく勉強して、それで、ひとみちゃんと真希ちゃんが朝高にいけたらいいな、
そう思ってた、けどやっぱり明日からは2人のためにももっともっと頑張るよ。」
「えっ?どうしたの梨華ちゃんアタシC評価だよ、上等だよ。絶対今までだったらEもつかなかったよ。
短期間でこんだけ伸びたんだから入試までには大丈夫だよ。」
「そうだよ、わたしなんかBだよ。『合格可能圏内』って書かれてるよ。」
笑いながらそう言ったアタシたち、けれどアタシはそのときの梨華ちゃんの顔を忘れることはないだろう。
「なに言ってるの!真希ちゃんは『努力次第。志望校変更も視野に』って書かれてるのよ、
朝高止めろって言われてるのよ、悔しくないの!それにひとみちゃん!
B評価ってことはそのうえにAの人がたくさんいるってことなのよ、その人たちがみんな朝高受けたらどうするの!」
忘れてた、こういう人だった・・・
努力家で心配性、そしてなにより、アタシ達思いの先生。
かくして翌日から梨華ちゃんは鬼コーチになった。
(はぁ〜、アタシはやさしい梨華ちゃんに教えてもらいたいよ)
「コラッ!真希ちゃんまた手が止まってる。」
考え事をしていたせいか、いつのまにかシャーペンをくるくると回していて怒られた。
「ねぇ、梨華ちゃん、休憩にしようよ、そろそろお昼だし。」
「そうねぇ、じゃあ、それ終わったらお昼にしよっか。」
梨華は先ほどからまったく進んでいない真希の数学の参考書を見て言った。
「梨華ちゃ〜ん。」
結局真希の叫びもむなしく、昼食にありつけたのは1時間以上あとだった。
受験生の夏は始まったばかりだ。
キッチンから楽しそうに箸やらコップを運ぶ梨華、しかし、真希はその様子をいぶかしげに見ている。
「それにしても冷やし中華にアイスコーヒーって、どうなの?」
「あれっ?真希ちゃんが昨日冷麺食べたいって言ったのよ。」
「いや、だから組み合わせ的には麦茶とか、ウーロン茶とか・・・」
「・・・ゴメン、わたしがアイスコーヒー好きだって前に言った・・・」
梨華は勉強に関しては厳しくなった、しかし、それ以外の部分では相変わらず優しかった、いや、優しすぎると言えた。
今日の昼食のようなことはよくあった。真希とひとみ、両方の希望をかなえてやろうとして結果、アンバランスなことになる。
そして迷惑をこうむるのはいつも真希とひとみだ。しかし、それは2人を思ってのことなので誰も何も言えない。
「おかわりあるからね。」
山のような黄色い麺を嬉しそうに見せながら梨華が言った。
(そして、加減も知らないのよね・・・)
窓の外から子ども達の声が聞こえる、今日も暑くなりそうだ。
「ところで梨華ちゃん、あさっての土曜日、暇?」
食器を片付けながらひとみが梨華に話しかけている。
(なんであんだけ食べた後にすぐ動けるのよ)
真希はというと、ひんやりとしたフローリングの上で「く」の字になって倒れていた。
「別に用事ないけど、なにかあるの?」
「うん、そこの神社でお祭りがあるんだけど、どうかなって思って。
梨華ちゃん1人暮らし始めたのって今年の春からだから、行ったことないでしょ、
そんなにおっきなお祭りじゃないけど結構屋台とか出て楽しいよ。」
「いいね、お祭り。なんか受験勉強ばっかりじゃ辛いもんね、行こっか。」
「じゃ、決まり。ごっちんも行くよね?」
真希は首だけを台所に向けて応えた。
年に一度の祭りを前日にひかえて、街はにわかに活気付いていた。
あちらこちらに提灯や注連縄(しめなわ)が飾られている駅前を、真希がデパートの紙包みを大事そうに抱えて歩いていた。
その隣には梨華もいた。
「嬉しそうだね、真希ちゃん。」
「うん、付き合ってくれてありがとね。」
夏休みが始まってこのかた、勉強会をはじめとして梨華とすごすことが多かったが、そこには常にひとみも一緒だった。
こうして梨華とこんなに長い時間二人っきりになるのは夏休み前、ひとみに内緒で梨華の部屋に通っていたとき以来だった。
ひとみには悪いと思うが、それ以上に梨華と二人きりの買い物は真希にとって近頃では最高の出来事だった。
昨日、祭の話をしていたときのこと。
「ねぇ、アタシ梨華ちゃんの浴衣姿見たいな。」
「えっ、土曜日のお祭りの話?」
「うん、あたしの貸してあげるから、いいでしょ。」
突然の提案に戸惑いながらも梨華ははにかみながら、応えた。
「う〜ん、ダメ。」
「えっ〜、なんで。」
「だって、私実家から浴衣持ってきてるもん。だから真希ちゃんのは借りれないよ。
その代わり、真希ちゃんも、ひとみちゃんも、みんなで浴衣着よ。」
「お〜、ナイスアイデア・・・あっ、でも・・・」
「ん、ごっちん、どした?」
勉強会も終わり、1人ゲームをしていたひとみも話に参加する。
「ほら、アタシ去年のお祭りの時、人ごみで巾着無くしちゃったじゃない、あれちっちゃい時に買ってもらって気に入ってたのになぁ。」
「ああ、そういえばそんな事もあったね、いいじゃん明日みんなで買いにいこうよ、ねっ梨華ちゃん。」
「そうねぇ、そしたら明日は早めに勉強終わらして、みんなでお買い物行こっか。」
そんな流れで今日は3人で昼から買い物の予定だったのだが、
朝早く梨華のところにひとみから今日は行けなくなった、と電話があった。
ひとみの話では少し体調がすぐれないので、明日のために今日は家でゆっくり休みたいとのことだった。
「ねぇ、真希ちゃんこの後予定ある?」
横を歩いていた梨華が真希に訊く。
この後はもう帰っておしまい、と思っていた真希は舞い上がりそうになるのをこらえて即答した。
「ない、ない、な〜んもない、断じてない!」
「じゃあ、寄りたい所あるんだけどいいかな?」
「もちろん!どこへなりと」
言いながら真希は梨華の腕に自分の腕を絡ませた。
「ちょっと、どうしたのよ、突然。」
「ふふ〜ん、別にいいじゃん、たまには。」
(ふっふっふっ、よっすぃには悪いけど、チャンスは有効に使わせてもらうよ)
「えっ、ここ?」
ついた場所は雑居ビルの1階。ひとみ達といつも行く喫茶店とは明らかに雰囲気が違う、
表の看板はアルファベットだったが英語とは違うらしくよくわからなかった。
「友達がバイトしてるから1回遊びに来いって言われてたの。」
「でも、ここってお酒呑むトコでしょ、いいの?」
「なんか昼間は普通の喫茶店やってるって言ってたから大丈夫でしょ。」
確かに店内はカウンターといくつかテーブルがあり普通の喫茶店と変わらなかった。
2人を出迎えた店員を除いては。
「いらっしゃいませ。」
そう言ってテーブルに案内する少女はどういうわけか白地に水玉のワンピース、
スカートはワイヤーが入っているのかコーヒーカップを逆さまにしたようになっていた。
そして、頭には服とおそろいの大きなリボンが2つ。
「(ねぇ、梨華ちゃん、なにこの店?)」
「(なんでも、普通の喫茶店だって言ってたけど・・・)」
「ご注文はお決まりでしょうか?」
店員に聞こえないようにヒソヒソと話していた2人に先ほどのウェイトレスが近づいてくる、
よく見るとその服装もさることながら、少女はどう見ても真希より年下だ。
「え、えーと、アイスティー、レモンで。」
「アタシもそれで。」
「ところで、市井さんって人いますか?」
動揺を隠せないながらも何とか注文を済まし、梨華は本来の用事を店員に尋ねた。
すると、少女の顔からは先ほどまでの営業スマイルは突如消え、口調まで変わってしまった。
「なんや、自分らいちーのツレかいな、あ〜、営業用の接客することなかったんや。」
「こら!亜依、お客さんに失礼でしょ、それにまだ紗耶香の友達って決まってないのに。」
先ほどからのやり取りを見ていたのか、カウンターの向こうから店長らしき女性が顔を出す。
「ごめんねぇ、この子基本的に客商売向いてないから許してやってね。」
(彩姉ちゃん、それはフォローとは言わんねんで)
「いえ、気にしないですけど・・・それより今日は市井さん来てないんですか?」
「ん、紗耶香だったら今奥にいるよ。紗耶香ぁ〜、あれっ?聞こえないのかな?
ちょっと辻ちゃん、裏行って見て来てくれる。」
「外はあちーのれす。」
「オレンジジュース350円なり・・・」
「・・・厨房通ってもいいれすか?」
先ほどからカウンターの一番奥の席でオレンジジュースを飲んでいたもう1人の少女、
おそらくウェイトレスの少女と同い年くらいだろうか、はそそくさと厨房を通って奥へ入っていった。
しばらくして出てきた梨華の友人だと言う少女は、先に紗耶香と言う名前を聞いていなければ、
少年とみまちがえそうな容貌だった。いや、正確にはその衣装にも原因があるのだが・・・
厨房から出てきた紗耶香はスラックス・タイ・ベストをグレーでかためた、バーテンダースタイルだった。
「(ねぇ、梨華ちゃん、この店どうなってんの。フリフリで関西弁の中学生ウェイトレスに、男装の高校生バイトって・・・)」
「(あとでその辺も聞いてみるよ)」
梨華はあまりかかわりたくなさそうだったが、真希に聞かれてとりあえずそう応えておいた。
顔を寄せ合って話す2人を怪訝な顔で辛抱強く待っていた紗耶香だが、
2人の会話がすぐに終わりそうにないことを感じ取ると梨華に話しかけた。
「ところで今日は?」
「うん、いちーちゃんが1回来いって言ってたから。」
「あっ、そうなんだ。で、こっちは例のひとみちゃん?」
紗耶香の口からは思いがけずひとみの名前が出てきた。
本当に何気ない口調だったが、真希には『梨華と一緒にいる少女はひとみ』、そう言われたようで胸にかすかな痛みがはしった。
「違うよ、この子は真希ちゃん、ひとみちゃんの友達で、今はわたしの友達。」
「ああ、真希ちゃんのほうか、よろしくね、梨華ちゃんのクラスメイトの市井紗耶香です。」
そう言って差し出された手を真希は反射的に握リ返したが、気持ちは別のところに行っていた。
「退屈?」
しばらく3人で話していたが、話が梨華たちが通う高校の話になったので、
カウンター席に移ってきた真希をかわいそうだと思ったのか彩が声をかけてきた。
「えっ、そんなことないです。」
「紗耶香っていいやつでしょ。」
「はい、初めて会ったのにすごくたくさん話してくれました。」
予想外の問いかけに驚きつつも、素直に応えた。
「でもね、ついこの間まであの子すごい人見知りでね、特に女の子に対して。」
「へェ〜、以外です、すっごくフレンドリーな感じなのに。」
「うん、前も表面的にはそうだったよ、でも、本当に心を許してたのは今日一緒に来た梨華ちゃんを含めてほんの少しだけ・・・でもね、
最近いろんなことがあってちょっと考え方変えたんだって。
本人曰く『最近世の中ハッピーって気づいたッス』だって。」
「ふ〜ん、なんかよくわかないけど良かったですね。でも、なんでそんな話を?」
空になったグラスをもてあそびながら、今度は真希のほうから訊いてみた。
「う〜ん、なんかね同じ顔してるように見えたから・・・かな。」
「誰とですか?」
「フフッ、内緒。」
結局、彩との会話はそれで終わり。
彩はおかわりのアイスティーを真希につくってやると「今度は1人でもいらっしゃい。」と言って奥へ引っ込んでしまった。
(なんだったんだろ?)
釈然としないまま店内を見回すと、先ほどのウェイトレスと少女もいなくなっていて、
店内は真希と梨華、そして、今日初めて出合った紗耶香だけだった。
テーブル席でまだおしゃべりを続けている2人の所へ行こうかとも思ったが、その雰囲気を感じ躊躇してしまった。
(梨華ちゃん学校ではあんなふうに笑うんだ、あたし達といるときとはちょっと違うかな。
・・・ひとみちゃんと2人の時もきっと違うんだろうな。)
今日、梨華に連れられて初めて来た喫茶店はひどく広く感じた。
「よっすぃ、来なかったね。」
「・・・うん。」
10時30分。別に3人で話し合って決めたわけではいが、それが梨華の部屋での勉強会における
集合時間になっていた。
しかし、その日は時間になってもひとみは現れず、こうして昼食の片づけをしていている今もまだ何の連絡もない。
「電話してみよっか。」
「・・・やめとく、ひとみちゃん具合悪くて寝てるかもしれないし。」
うつむきながらポツリポツリとしか応えない梨華。見るからに痛々しい。
「大丈夫だよ、ただの夏風邪なんだから。それに、あのよっすぃだよ。今までアタシが見てきた中じゃ一番丈夫な子なんだから。」
そう言って梨華の肩に手を置くと、真希は立ち上り、帰り支度をはじめる。
いったん家に戻って、浴衣に着替えるためだ。本当は梨華のそばにいてやるべきだと思ったが、
あまりに重苦しい空気に耐えられなくなっていた。
正午を過ぎ、日差しが一日で一番きつい時間になっていた。
インターホンを押しかけてやめる、先ほどから何度となく繰り返した動作。
梨華の部屋の前には浴衣に着替えた真希の姿があった。淡いふじ色の生地に金魚をあしらった浴衣。
少しうつむき加減で憂いを含んだ横顔は、普段の活発を絵に描いたような真希ではなく、たおやかな印象すら与える。
約束の時間はすでに過ぎていたが、先ほどの梨華の顔を思い出すと、どうしても部屋に入る気がおきなかった。
(つらい・・・あんな梨華ちゃんの顔は見たくない。
ううん、違う、本当は・・・よそう、考えるのは、今梨華ちゃんの側にいれるのはあたしだけなんだから)
大きく息を吸い、意を決して梨華を呼び出す。
「は〜い。」
「真希です。」
「あっ、真希ちゃん、おっそいよ〜まったくぅ。今開けるからまってて。」
(・・・明るい)
ドアの向こうから軽やかな足音が聞こえる。
インターホン越しに聞こえた理華の声は、先ほどとは別人のように明るい梨華本来の声だった。
「さっきね、ひとみちゃんから電話があって、お祭りには一緒に行けるって。」
(ふ〜、言わなくてもすぐに分かったよ、まったく。)
すっかり元気を取り戻して楽しそうに話す梨華に心の中で毒づきながらも、
真希も梨華に笑顔が戻ったことが嬉して、無意識に笑顔にになっていた。
しかし、約束の7時を回ってもひとみは来なかった。
「迎えに行こっか。」
先ほどの笑顔はどこへやら、再び昼間のように悲愴感を漂わせている梨華に真希が言う。
(それにしてもなんて浮き沈みが激しい人だろう)
特にひとみの事となると本当に些細なことで機嫌が良くなったり、またその逆もある梨華。
時々呆れてしまいそうになるが、そうした感情を強く表現できるところが梨華の魅力の1つになっていることも
事実なので口には出さない。
「もう、大丈夫だって、さっきは電話もしてきてるんだから、ほら、行くよ。」
「うん、分かってるんだけどね。会ってないからやっぱり不安なの。」
「まったく、心配性なんだから。」
真希は引きずるようにして梨華を連れ出すと、ひとみの家に向かった。
まさかそこであんな修羅場が待っているとは知らずに・・・
ひとみの家に着いた2人を出迎えてくれたのは、ひとみでもその母親でもなく、ひとみの父親だった。
何度もひとみの家に来ている真希にとってもこれは大変珍しいことだった。
そして、真希がさらにおかしいと思ったのは父親と途中ですれ違ったひとみの弟の態度だった。
2人の目からは明らかに疲れが見て取れたが、同時に真希と梨華に期待を込めたまなざしを送っていた。
ひとみの部屋に向かいながら、真希はその理由を悟った。
「お祭りはまた来年もあるんだから、そんな熱でどこ行く気なのひとみ。」
「いや、離してよ、お祭りは来年もあるけど、中学生活最後の夏は今しかないの。」
パジャマ姿で部屋から出ようとするひとみ、そして、そのひとみの部屋のドアを体重を目いっぱいかけて外側から抑えている母。
「お祭りに行くんだぁ。」
吉澤家にひとみの断末魔が響く。
「ごめんね、私が言い出したのに。」
以前と比べ幾分女の子らしくなった部屋でひとみはベッドに横たわっている。熱のせいだろうか、頬が少しピンク色になっていた。
「ううん、気にしなくていいのよ、それよりもおばさんあまり困らしちゃダメよ。」
「そうだよ、よっすぃ、おじさんがあたし達に目で訴えてたよ『助けてください』って。」
冗談めかして言ってみるがひとみは何も応えない、明らかにそれとわかるつくり笑いを浮かべるだけだった。
部屋の中を分厚い沈黙が支配する。
おとついの昼、突然決まった計画。ただ3人でお祭りに行くと言うだけのもの、ただそれだけなのに、
「また来年みんなで行こうよ。」その一言を誰も言えないでいた。
街頭の下を羽虫が狂ったように飛び交っていた、ひとみの家から神社へと続く道は駅と反対方向のせいか人通りはまばらだった。
「2人で行ってきなよ」というひとみの提案はすんなりと受け入れられた、2人にはひとみの気持ちも、
その提案を断られることの辛さもわかっていたから。
人の熱気、祭りの活気。神社は目に見えないたくさんの気で満たされていた。
「わぁ、すごい人だね。」
「うん、年に1回のことだから結構人が集まるんだよ。」
意味のない会話。
ずっとニコニコしてるけど、笑っていない梨華を見ると最近少しずつ気づいてきていたことが現実の色を帯びてくる。
「ねぇ、梨華ちゃん楽しい?」
真希は目の前の地雷に自ら足を踏み入れた。
「うん」
決定的だった。
満面の笑顔を浮かべながら梨華が応える、けれどその目に映っているのは祭りの光でも横を歩く真希でもない。
2人きりになってはっきり分かった。
少しずつ気づいていた。
梨華はいつも優しかった。
梨華に誉められると嬉しかった。
梨華の笑顔を見ると幸せだった。
梨華が大好きだった。
「失恋」と言う言葉は失礼だと思う、だって、人を好きになって失うものなど何もないのだから。
むしろ、この夏はたくさんの、かけがいのない日々を与えてくれた。
「じゃあ、帰ろっか。」
「えっ?」
「だから、帰ろって言ったの。もうお土産も充分買ったし、早くよっすぃに持っていってあげようよ。」
それだけ言うと真希は流れに逆らって歩き出した。強い強い流れに。
「あれっ、早くない?」
「うん、疲れちゃった、なんか元気になってない?」
「ううん、薬が効いてるだけ・・・だと思う。」
母親にお粥でもつくってもらったのだろう、枕もとに空になったどんぶりが置いてあった。
顔色も先ほどと比べかなり良くなっていた。
「あのね、真希ちゃんが教えてくれたひとみちゃんの好物いっぱい買ってきたよ。」
ビニール袋に入った飴がひとみに手渡される、あか・あお・みどり・・・色とりどりの甘い飴。
真希とお祭りに行くと今まで必ず最後に買っていた。
今年は諦めていたが思いがけないプレゼント、真希が教えて、梨華が買ってきてくれたお土産。
時間が経つにしたがってひとみにいつもの元気が戻ってきていた。
「ねぇ、よっすぃが治ったらさ、3人で花火しようよ、今日みたいに浴衣着て」
「どうしたの突然。」
「いいから、しようよ、ねぇ、梨華ちゃん」
「そうだね、ひとみちゃんが治ったらね」
先ほどとはまったく違う笑顔で梨華は応えた。
それはただ、嬉しいとか楽しいを表すだけのものではなく、見るものを包み込むようだった。
その笑顔を見て真希は自分が正しかったことを確信した、そして、幸せだった。
「ねぇ、よっすぃ、今日アタシ泊まるよ。」
「なに言ってんのよ、わたし風邪ひいてんだよ。」
「いいんだよ、絶対泊まるからね。」
「寝た?」
「いや、昼間寝すぎたみたいで全然眠くない。」
虫の音が聞こえる。
まだまだ暑い日が続いているので忘れそうになっていたが、夏は終わろうとしていた。
「ねぇ」
「ん?」
「梨華ちゃんは優しいね。」
「どうしたの、突然?」
ベッドから身を起こして、不思議そうにひとみが真希を見ている。
「なんでもない、アタシは昼間ちゃんと勉強したから眠いんだ、寝るね。」
「変なやつ。」
きっと誰も、何も悪くない思う。
でも、いつからだろう、梨華ちゃんの家でよっすぃが泣いた日?
ちがう、もっと前から決まっていたこと、ただ、あたしが梨華ちゃんのやさしさに甘えていただけ・・・かな
夢を見た・・・
道に迷っていた、大きな家があった。
家の人はとても親切だった、眠たくなれば枕もとで歌を歌ってくれた、寂しいときはずっと側にいてくれた。
「ありがとう」って言うと、やさしく微笑んでくれた。
本当に大きな家だった、その気になれば何人くらいの人が住めるのか見当もつかなかった。
ある日、1つの部屋を見つけた。いい香りがする部屋だった、中から楽しそうな声が聞こえる。。
けれどどうしてもその部屋には入れない、鍵が見つからない・・・
夢を見た・・・
道に迷っていた、大きな家があった。
家の人はとても親切だった、眠たくなれば枕もとで歌を歌ってくれた、寂しいときはずっと側にいてくれた。
「ありがとう」って言うと、やさしく微笑んでくれた。
本当に大きな家だった、その気になれば何人くらいの人が住めるのか見当もつかなかった。
ある日、1つの部屋を見つけた。いい香りがする部屋だった、中から楽しそうな声が聞こえる。。
けれどどうしてもその部屋には入れない、鍵が見つからない・・・
「なんで寝て起きて、目が赤いの?」
「うるさいなぁ、知らないよ。」
次の朝、ひとみはすっかり元気になっていた。カーテンを開け、朝日を浴びる横顔は真希が知っているいつものひとみだった。
「(ねぇ、よっすぃはどうやって鍵を手に入れたの)」
「なんか言った?」
「言ってないよ。」
ぶっきらぼうに答えながら真希は思った。
あいかわらず今日も暑いくなりそうだ。
けれど、昨日と同じ今日はもうやって来ない。
一体どのくらいの人が自分のように今日を特別な日にしているのだろう。
「いらっしゃい。って、あれっ、1人?」
「はい、この前1人でもおいでって・・・」
「あっ、そっか、言ったね。えーと、アイスティー、レモンでよかったっけ。」
「あっ、アイスコーヒーにしてください。」
昼食には遅すぎる時間、彩の店には客は1人もいなかった。けれど前ほどは広く感じなかった。
「なんでずっと人の顔見てるんですか。」
カウンター越しに頬杖をついて、真希の顔をじっと見ていた彩。
居心地が悪くなった真希はストゥールをくるりと回して反対側を向いてしまう。
「なんかね、顔すっきりしたなと思って。」
「余計な水分が抜けたんですよ。」
彩の方を向きなおして笑顔で真希が応える、その笑顔は数日前、ここで梨華と話していた紗耶香のそれと似ていた。
カランと小気味のいい音がした。
しばらくして、紗耶香が学校の友達と思われる少女たちを連れて店に入ってきた。
「あっ、真希ちゃん、いらっしゃい。」
「お邪魔してます。」
軽く挨拶を交わしながら紗耶香たちはソファーのある一角を占拠し始める。
「こらこら、ここはあんたらサークルの溜まり場じゃないのよ。」
「まぁまぁ、彩さん、ここはおいらの顔に免じて。」
おどけながら一番背の低い少女が言うと、「しょうがないわねぇ。」と言いながら、彩は4人分の飲み物を作り始めた。
「紗耶香ね、最近ダンスサークルやってるんだって、毎日楽しそうよ。」
「そうなんですか。」
また突然話し掛けれて、気のない返事になってしまった。
「前はね、絶対そんなのするやつじゃなかったんだけどね。見つけたみたい、ハマれるもの。」
「ふ〜ん、そんな簡単に見つかるもんなんですか?」
「さぁ、でも運と根気じゃないの。」
「なんか適当言ってません?」
「う〜ん、あとは焦らず、時間をかけましょう、ってね。人生何事ものんびりよ。」
おどけた口調で言うと、彩はドリンクを持って紗耶香たちの所へ行ってしまった。
日が落ちるとだいぶすごしやすくなった、そんなことに季節の移り変わりを感じる。
「ねぇ、よっすぃ、ほんとに使い方わかんの?」
「大丈夫、任せなさい。」
言いながらひとみは三脚とカメラを調整している。
「ねぇ、真希ちゃん、なんで突然写真とりたいなんて言い出したの?」
「うん、記念だよ、記念、アタシとよっすぃの中学最後の夏の記念with梨華ちゃん。」
言いながら真希は、梨華の手を取り自分の方へ引っ張る。
レンズの向こう側でいちゃつく真希と梨華を見ながらひとみは面白くなさそうな顔をしている。
「ちょっと、人が頑張ってるのに、なにしてんのよ。」
「えぇ〜、いいじゃんちょっとくらい。」
(・・・そう、ちょっとだけ、あとちょっとだけ、この夏が終わるまでは・・・)
その夜の花火は今までで一番きれいだった。
色とりどりの光、風邪が治って楽しそうなよっすぃ、そして、それを幸せな笑顔で見つめる梨華ちゃん。
これからもアタシたち3人はずっといっしょだと思う、だけど、こんな花火は今年だけ。
「あぁ、もう煙が目にしみる!」
真希はそう言うと浴衣の袖で顔をぬぐう。
終わりゆく夏に別れを告げ、次の季節の訪れを感じながら。
〜世界一のビール〜
夢の中で携帯の音が聞こえた。
うるさいと思いながらも実家の母からの電話だといけないと思い、のっそりと起き上がる。
彼女は病的なほど心配性だ。一度面倒で電話に出なかったときは、そのあと1時間も理由を説明しなければいけなかった。
しかし、ディスプレイに表示された名前を見て、やっぱりでるのをやめた。
(気にするなっていったのに。)
うんざりした気持ちで時計を見る。
ちょうど昼休みの時間だった。
中途半端な時間に無理やり起こさたことで、かなり気分が悪い。
冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、そのうちの1本を一気に流し込んだ。
2本目を開けながら、ふと考えた。
こんな風に昼間から呑むのは久しぶりだ、それよりもこの1年ほど皆勤賞だった自分に気付き、額に手をあてて笑ってしまった。
いつからだろう、こんな風に笑うようになったのは。
そんなことを考えていると、再び携帯が鳴り出した。
今度は電源を切って、それをベッドに放り投げた。
イラつく・・・
鞄から煙草を取り出すと火をつけようとライターを探すが見つからない。
(そっか、昨日取られたまんまか・・・)
夏休みも終わり2週間ほどが過ぎていた。
秋が近いせいか、近頃は昼間でもかなり過ごしやすくなっていたが、
それでも、コンクリート張りの屋上は1ヶ月前の猛暑を思い出させる。
(練習前に何の用事だろう)
昨日の放課後、期待と不安を胸に練習前の屋上で彼女を待っていた。
彼女が人を呼び出す、それも学校で、これはとても珍しいことだ。
普段は周囲に気を使わせるのが嫌いで、自分達の関係自体を隠すように行動しているのに。
それにしても、人を待っている時というのはどうしてこんなに想像力は働くのか、そんなことを考えているうちに彼女はやって来た。
「よっ。」
いつもなら彼女は言いながら軽く片手を挙げ、白い歯を覗かせる、しかし、その日は両手を
ポケットに入れたまま、少しうつむき加減でとぼとぼと近づいてきた。
不安の方が当たったことを感じた。
「別れたい。」
彼女はいつも理由よりも先に結論を言う。時には結論しか言わないときもあったが、
そんなサバサバした性格が彼女の魅力の1つでもあり、私もそれを気に入っていた。
「どうして?」と、訊く代わりにブレザーの内ポケットから煙草を取り出し火をつけた。
彼女の方から話してくれるのを待とうと思ったからだ。
けれど吸い終わった煙草をローファーのかかとでもみ消しても、彼女はまだ何も言わない。
「分かった。」
仕方がないのでそう言いながら、2本目に火をつけようとしたところでライターを取り上げられた。
「嫌いになったわけじゃないんだ・・・」
「分かってる、約束だからね、別れたいときに別れてそのあとは友達、サークルもやめない。覚えてるよ。」
「あと、学校では煙草吸わない。」
そいうと彼女はライターを持って行ってしまった。
私は、泣きたいのはこっちだよ、と思いながら彼女の振るえる肩を見つめていた。
結局、次の日も学校へは行かなかったので、3日ぶりの登校になってしまった。
クラスメイトの何人かが体の心配をしてくれたが、2、3日の間に何が変わるということもなく、
午前中の授業は私の気持ちとは関係なく次々と消化され、私はその日何も学ぶことなく、昼休みを迎えていた。
「カヲ、来てるんでしょ。」
購買に行こうと席を立ったその時、教室の入り口から元気いっぱいを絵に描いたような、少し小柄な少女が圭織を呼んだ。
昼休みに入ったばかりの廊下は、午前中の一仕事が終わった開放感で溢れていた。
「それにしても2日も続けてカヲが休むなんてどうしたんだよ?」
「いや、別に2日くらい普通っしょ。最近が真面目すぎたんだよ。」
「・・・だから、また病気が再発したんじゃないかなって。」
先ほどまでのおどけたような口調とは違い、真里は声をひそめて言った。
その台詞を聞いて圭織の瞳は一瞬曇ったが、それを悟られないようにつとめて明るく答えた。
「その口ぶりだと圭ちゃんから聞いたね。」
「うん、なんか泣きながら電話してくるんだよ、昨日も。」
「まったくあいつは・・・まぁ、そういうことで、私は大丈夫だから、圭ちゃんの方しっかり見ててあげてよ。」
何が大丈夫かよくわからないが、圭織はとりあえずそう言うと真里の肩をポンポンと叩くと、屋上へ向かって歩き出した。
「あれっ、屋上行くの?」
「そっ、休憩。」
ブレザーの胸のあたりを指差しながら応える。
「圭ちゃんそれも心配してたよ、なんか本数増えてるみたいだって」
「余計なお世話だよ、それより矢口こそお迎えが来たみたいだよ。」
圭織が見ている先には、真里の姿を見つけて「やっぐっつぁ〜ん」と叫びながら一目散に
走ってくる紗耶香の姿があった。その後ろには小走りでついてくる梨華もいた。
「いつの間に『さん』から『ちゃん』に格上げしたの?」
「そういうの普通格下げって言うんだよ。それに矢口は許可した覚えはない。
最近あいつ見境なくてなんか怖いんだよ。」
口ではそういいながらも、走ってくる紗耶香を見ている真里の目は楽しそうだった。
「まぁ、せっかく入った新メンバーなんだから仲良くしてやってよ。それと、今日は練習休みね。」
「分かってるよ、リーダー面するんだったらこれからは2日も無断で休むなよ。」
励ましとも、捨て台詞ともとれる言葉を残して、真里は紗耶香達の方に駆けていった。
(結局、自分だって嬉しいんじゃないかよ)
圭織は苦笑いしながらもかける言葉が思いつかず、そのまま屋上へと向かった。
屋上からは見慣れた風景と季節のせいで少し高くなった空が広がっていた。
考えるべきことが多すぎた、そして、考えるための時間だけは豊富にあった。
それでもこうして1人になったときに感じる苛立ちの理由はわからなかった。
私はいったいどうしたいんだろう。
圭ちゃんはいい子だ、だから、わたしも好きになったし今でも彼女の事は嫌いじゃない。
かといって、強引によりを戻したいとも思わない。大体私は彼女がなぜ別れたいと言ったのかすら知らない。
矢口と紗耶香の仲がいいのが気に入らない・・・こともない。
確かに別れたばかりでああいうのを見せられるのは気分がいいものじゃない、
だけど、どっちかって言うとあの2人がうまくいくといいなと思う。
結局自分自身に原因があるってことだろうか。
圭織はそこまで考えると、おもむろに煙草に火をつけ、いつもよりも深く一口目を吸い込み、一気に吐き出した。
「おっ、いっちょ前の吸い方しとんな。」
人が近づくのにも気付かないほど真剣に考え事をするなんていつ以来だろう、
それにしもあまりのタイミングの悪さに圭織は舌打ちをした。
「なんや珍しいの吸っとんな、うわっ!ほそっ!。」
圭織の吸っている煙草を取り上げながら声の主は取り上げた煙草に火をつける。
「なんでゆうちゃんがここにいんのよ。」
「こらこら、せめてゆうちゃん先生と呼び。
それにしてもこれなんか吸いにくいな、細すぎて吸い込んでしまいそうや。」
「カプリって言うんですよ。」
圭織はばつが悪そうに視線をそらしながら応えるが、先生と呼ばれた女性はあえてその顔を覗き込みながら言った。
「ほな、行こか。」
「ゆうちゃん、そっち職員室じゃないよ。」
「なんや、職員室行きたいんか?」
(喫煙、それも校内でとなると、間違いなく職員室で厳重注意を受けたあと、
謹慎、もしくは停学コースのはずなんだけど、この人の考えることは時々理解の範疇を越えるからな)
怪訝な顔をしながら裕子の後を付いて歩く圭織。もしかしたら謹慎は免れるかもしれないな、
などと甘いことを考えているとそこに到着した。
「げっ!みちよ部屋。」
「なんや、やっぱり生徒の間ではそう呼ばれとるんか。まぁ、確かにみっちゃんいっつも化学室におるからなぁ。」
わざとらしく「かわいそうに」という顔を作りつつ、裕子はすでに化学室のドアに手をかけていた。
「おじゃまするでぇ。みっちゃん準備室ちょっと貸してな。」
「あぁ、ええよ、コーヒー淹れよか?」
「うん、2つな。」
喫茶店のマスターと常連客を思わせるような会話、そして、注文を受けたマスターはというと慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。
「って、ちょっと平家先生、それってこの前の授業で使ったやつでしょ?」
「ああ、大丈夫やで、結構上手いことできるから。」
「そうやで、実験器具使って淹れるみっちゃんのコーヒーはなかなかやで、さすが化学教師や。」
しゃべりながらも慣れた手つきで器具を組み立てる平家、
それを見ながら圭織は前の授業の最後に器具の掃除を適当にしたことを心底後悔していた。
「あっ、そうやちょっとみっちゃんこっちおいで、珍しいもん手に入れてん。」
「なんや、カプリやんか、懐かしいな。」
「へっ、これって有名なん?」
組み立てを終えた平家を裕子が嬉しそうに呼び、先ほど圭織から没収した煙草を見せている。
圭織にしてみればさっさと説教を始めるなり、解放してくれたほうがどれだけ気が楽か、
学校きっての変わり者教師2人はさまれている状況は決して居心地のいいものではなかった。
「おっ、もうええかな。こうやってな、コックで落ちるスピード調整するんがコツやねん。」
そうこうしているうちに部屋にはコーヒーのこうばしい香りが立ちこめはじめ、嬉しそうな顔した
平家が三角フラスコに入った琥珀色の液体を圭織たちの目の前のビーカーに分け注ぐ。
「ゆうちゃん砂糖2つでよかったっけ?」
「うん、ミルクはいらんで。」
「圭織は?」
(ビーカー・・・)
「・・・あっ、いや、ブラックでいいです。」
「なんや、可愛げのない飲み方すんねんな。」
少し不満そうな顔で平家は砂糖つぼを裕子の前に置くと、自分のコーヒーにも砂糖を1つ入れかき混ぜる、
もちろんマドラーはガラス棒である。
「そうやねん、この子可愛げないからここ連れて来てん。」
裕子はそう言うと先ほどの煙草の箱を圭織の目に差し出す。
「やっぱり、謹慎か停学ですか。」
別に謹慎になってもかまわなかったが、実家の母のことを思うと気分が重かった。
きっと彼女は実家からでてきて、延々と教師達に謝り、いや、ともすれば土下座すらしかねない。
そして、私に対しても叱るでもなく、グチグチと後悔の言葉を泣きながら吐き出すだろう。
「なんや、そんな謹慎なりたいんか?違うやろ?
それにそのつもりやったらすぐ職員室連れて行ったわ。
言うとくけどな、ウチは圭織と今日初めておうたわけやない。確かに煙草はようないけど・・・
だからってすぐに停学にしたらそれで問題解決するわけやないやろ、あんたにもいろいろ事情はあるやろし・・・」
『中澤先生、中澤先生、至急教員室まで、お電話がはいっています』
話している途中、裕子が興奮し始めたのを見計らったかのように校内放送が流れた。
裕子は軽く舌打ちすると、ため息をつきながら「あと頼むわ」と言い残して出て行った。
「あと頼むわって言われてもなぁ」
残された平家はこれから説教を受けるであろう圭織以上に困り果てた顔をしていた。
「要するに中澤先生に煙草見つかって、ここまで連れてこられたんやろ?」
平家の問いかけに圭織は無言でうなずく。
圭織にしてみれば、とりあえず謹慎にはならずにすんでほっとしていたところに、
今度は学校きってのマッドサイエンティストと2人っきりというシチュエーションに自分の運のなさを心底うんざりしていた。
「まぁ、若いうちはいろいろあるし、煙草吸ったり酒飲んだりすんのも楽しいからなぁけど、
自分らくらいやったら他に楽しいことあるんちゃうの?」
「・・・・・・」
「まぁ、ええけどな。けど、煙草なんか大人なったらなんぼでも吸えるねんから、
とりあえず今しかできん事する方が賢いと思うけどな、ウチは。」
「・・・今しかできないことってなんですか。」
ありふれた説教に怒りをおぼえた圭織が重い口を開いた。
圭織にしてみればこうした使い古された大人たちのフレーズがいかに意味を持たないものか嫌というほど知っていたし、
多くの大人たちはそうした言葉の意味を知らずに使っていると思っていたからだ。
しかし、圭織の思惑に反して平家は快活に、そして、少しうらやましそうに即答した。
「それはな、大人になったら恥ずかしくてようせんようなことや。」
そう言うと平家は先ほどの手製のコーヒーセットを片付け始めた。
「今日はもうええやろ。」
言うと同時に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
圭織にとって、その日の午後の授業は午前中にもまして遠い世界の出来事のように思えた。
翌日、圭織の心は窓の外から見える空のようにどんよりと曇っていた。
なんだかわけがわからないうちに謹慎は免れたが、
昨日平家に言われた言葉は喉に刺さった小骨のように圭織の胸に引っかかっていた。
そして、圭織の心をかき乱している原因は他にもあった。
今朝、届いたメール『放課後、屋上で』。とても短い、彼女らしいメールだった。
屋上に上がると湿っぽい匂いがした。
2日続けてオフにする事に少し躊躇したが、この天気を見るとどうやら自分の判断は正解だったらしい。
それにしも、サークルが休みであることを伝えるときの紗耶香の顔はいつ見ても笑ってしまいそうになる、
不満、残念、悲しみそいったものをミックスした表情。
いまだに昼休みとサークル以外では積極的に真里を誘うことができない彼女にとって、サークルのオフは死活問題だ。
(ま〜ったく、あいつは)
「なにニヤニヤしてんのよ。」
知らないうちに口元がほころんでいたらしく、訪問者にそれを指摘され、少々気恥ずかしかった。
「なんでもないよ、ところでわざわざ呼び出して何の用?」
つい先日別れを言い渡された相手とこうして面と向かって話しをするにはまだ少し時間がほしかったが、
できる限り平静を装って応えたつもりだった。
しかし、圭の表情からは、ただならぬ雰囲気が感じられ、そう言い返すのが精一杯だった。
「昨日、ここで何があったかちゃんと教えて。」
「誰から訊いたの?」
本当は昨日の一件を誰が圭に話したかなど問題ではなかったが、他に思いつく台詞がなかった。
「誰でもいいじゃない。っていいたいところだけど、どうせ分かることだから言っとく。祐ちゃん発、矢口経由だよ。」
「そっか・・・」
「どういうつもり!こうなるのが分かってたから、学校ではやめとけって言ったのに。」
ジリッと一歩近づいて、食いつくように怒鳴る圭。
そんな彼女を見ながら、怒っている本人には悪いと思いながらも圭織はこうした圭の生真面目なところも好きだったな、
などと考えていた。
「こうして私たちが屋上を自由に使わせてもらえているのも、学校側との信頼関係があるからなんだよ。」
「分かってるよ・・・」
「分かってないよ!圭織は大人だから・・・そんな圭織だからリーダーにふさわしいと思ってたのに」
少し泣きそうな顔で興奮気味に叫ぶ圭を見ながら、圭織は彼女が次に何を言いたいのか手にとるように分かった。
「責任はとるよ。私は今日限りでリーダーもサークルも辞める、それが今の最善策だね。」
「何もそこまで・・・」
「でも、それを言うために今日こうして呼んだんでしょ?」
圭に結論を言わせないことが自分なりの優しさだと思っていたのに、目の前でうつむいている彼女を見ると、
それさえも間違いだったのかもしれないと思ってしまった。
なんにせよ、これ以上圭織には言うべき言葉は見当たらなかったので、無言でその場を後にした。
家に着くとすぐにシャワーを浴びた。
帰り道、予想通り雨に降られ、首や肩にまとわりつく髪はとても不快だった。
この数日、実に様々なことがあった。
恋人と別れた女の子が髪を切るという昔話があるが、そうしたセンチメンタルな話も今は理解できる気がした。
(まだ5時か)
ぼんやりと時計を見ながら、これから先こうして不毛な夕方を毎日送ることになるかと思うと、気が滅入った。
(こういう日はさっさと寝よう)
まだ日も落ちきっていない部屋で圭織はすべてを覆い隠すように毛布をかぶり、浅い眠りについた。
どれ位時間が経ったのか、さっきから何度となく寝ようと試みているが、やはり床についたのが早すぎたらしく、
起きるしかないと悟った圭織は、テレビをつけゆっくりとベッドの上にあぐらをかいた。
(まだ開いてるかな)
テレビでは夜のニュース番組が始まったばかりだった。
圭織は手近の服を手繰り寄せると、部屋の鬱蒼とした空気に押し出されるように、夜の街へと飛び出した。
「・・・いらっしゃい。」
「こんばんわ、ひさしぶりです。」
着いた場所は紗耶香のバイト先の喫茶店。正確にはカフェバーだが、
紗耶香達とは昼間しか来ないので、こうして夜になり、バーになった店に時々顔を出していることはオーナーの彩しか知らない。
「まったく今日は満員御礼ね。」
言いながらグラスを拭く彩の横顔からは明らかに苛立ちとか不機嫌といった感情が見て取れた。
しかし、圭織は気にした様子もなく、いつも通り数少ない彩のレパートーリーからカシス・オレンジを頼んだ。
「誰が来たか訊かないの?」
「どうせ圭ちゃんたちでしょ。」
「プラス朝高が誇る、変わり者教師2人。
みんないろいろ心配してるんじゃないの?」
「関係ないですよ。」
素っ気無く応えた圭織の前に、これまた素っ気無くオレンジ色の液体で満たされたグラスが置かれる。
「あれっ、彩さん今日はグラス違うの?」
いつもなら圭織が好きだという理由でコリンズグラスで出してくれるのに、
どういうわけかその日は普通のソフトドリンク用のグラスが出てきた。
しかし、彩は圭織の問いかけに応えず、他の客となにやら話し込んでいる。
「(まっ、いいか)
って、彩さん!これ何、オレンジジュースじゃん!」
驚いて彩を呼ぶ圭織、そう彩が圭織に先ほどステアしたように見せて出していたのは100%オレンジジュースだった。
「なんか文句あるの、うちはね、子どもに飲ます酒は置いてないのよ。」
突然大声で彩を呼ぶ圭織の声に店にいた客の視線が集まる、
しかし、彩はまったく動じた様子を見せないどころか、静かではあるが確かに怒りが感じられる口調で圭織に言い返した。
彩のいつもと違う様子に驚きと少しばかり恐怖を感じた圭織は、
彩をこれ以上怒らせないように無意識に恐縮したような話し方になっていた。
「ちょっと、彩さん突然どうしたんですか?」
「どうしたじゃないよ、さっきも言ったとおりうちには子どもに出す酒はないの、それ飲んだらとっとと帰りな。」
「そんな、別に今までそんなこと言わなかったのに。」
「今まではあんたのことちょっとは話がわかる子だと思ってたの。
だけど今のあんた見てるとイライラすんのよ、一人で問題つくって、回りに心配かけて、
また一人でこうやってうちに呑みに来て・・・そんなガキに用はないのよ、帰んな!」
そう言い放つと彩は、再び目の前の客とその場の空気を取り繕うように笑顔で話し始めた。
しかし、その横顔には一切の反論を受け付けない迫力が漂っていたので、
圭織は泣き出しそうになるのをこらえながら、目の前のグラスに口をつけることなく店をあとにした。
「お〜、さすが彩っぺ、迫力やなぁ。」
「余計なこと言ってないで、圭織帰ったんだからこっち出てきて手伝う、あっ、みっちゃんは引き続き洗い物ね。」
圭織が出ていき、何事もなかったかのようにもとの空気を取り戻した店内にバイトらしき2人に指示を出す彩の声が響く。
「まったく姐さんはともかく、何でちゃんとツケ払っとるうちまで洗いもんやねん。」
「はい、そこぶつぶつ言わない!大体ツケで飲んでる事自体迷惑!分かったら手を動かす。」
「いや、でも彩っぺさぁ、こうやってバイトがこうへん度にうちら呼び出すのはどうかなぁ・・・」
「そういうことはすでに計算不可能になってるツケをきっちり払ってから言う!」
中澤裕子、平家充代。それぞれ全国的にそこそこ名の知れた朝比奈学院高等部の教師と講師である。
しかし、その実態は行きつけのバーの飲み代を払わず、その代わりに夜な夜な皿洗いや雑務に従事するという情けないものだった。
「「「ありがとうございました。」」」
最後の客を送り出した時にはすでに日付変更線を越えていた。
「それにしても圭織大丈夫かなぁ、なぁ、彩っぺ。」
「何よ、その目は。」
「べ〜つに、ただらしくない事しとったな、と思って。」
客がいなくなり、最低限の照明だけを残した薄暗い店内では、カウンターに横一列に並んでグラスを傾ける3つの影があった。
「そういやこの前うちが行ったあと、みっちゃんなんか言うた?」
「いや、別に・・・なんかしんどそうやったから、一応ヒントはあげといたけど、たぶん分かってないと思うわ。」
「せやろな、頭の良すぎる子やからな。やっぱりもう一回くらいコケる方がええかな。」
「でしょ、そういう意味では今日の私の対応正解でしょ?」
「いや、あれは完璧感情入っとたな。」
昼間、紗耶香達の甲高い声で賑わう喫茶店と同じ空間ではあっても、3人の周りにはそれとは違う速さで時間が流れていた。
そして、2階に続く階段にはその雰囲気に入れずにいる少女がいた。
(いいらさん・・・)
「なんやのの、いつまで待ってもジュースこうへん思たらそんなトコで何しとんねん。」
突然背後から声をかけられた辻は飛び出そうになる心臓を抑えながら、反射的に亜依の口に手を押し付けた。
「(シッー!ジュースは諦めておとなしく部屋に戻るのれす。)」
「(なんでやねん!)」
「(黙るのれす!)」
わけがわからず抵抗する亜依を口を抑えたまま、辻は力任せに2階の亜依の部屋まで押し戻した。
(あぁ、いいらさん・・・)
「(うっ、分かったのの、ジュースはええから手はなしてくれ・・・鼻まで抑えとる・・・)」
昨日の夜の雨が嘘のように気持ちよく晴れ上がった午後。
まだ喫茶店バージョンのボンには亜依の甲高い声が響いていた。
「おまたせです」
茶色とオレンジを基調にしたチェックのワンピースに身を包んだ亜依が慣れた手つきで大量のドリンクをテーブルに並べる。
「なんか加護今日はおとなし目だね、頭以外。」
ドリンクを並べ終わり、席に着いた亜依に話し掛ける真里の視線は亜依の頭、
正確にはその上のヘアバンドについている触角に向けられていた。
「うん、一応ぼちぼち秋やからちょっと抑えていこかて彩姉ちゃんも言うとった。」
「抑えてねぇ・・・」
真里の言葉に相槌を打つように、亜依、希美以外の6人はそれぞれの思いを込めたため息をついた。
「さて、飲み物も来たところで、本日の緊急ミーティングを始めます。
ミーティングと言ってもこうしてせっかくサークルをオフにして開催しているので皆の率直な意見を・・・」
「議長、前置きの前に質問があります。」
気持ちよさそうに前口上を述べる真里を勢いよく制したのは、ひとみだった。
「なんで、矢口さん達のダンスサークルのミーティングにサークルメンバーでもない梨華ちゃんや私、
ごっちんが呼ばれてるんですか、あと加護や辻なんかたまたまここにいただけじゃないですか?」
「うちら別にかまわんで、仕事もそんなないし、なぁ、のの。」
「はいれす。」
仕事は探せばいくらでもあるよ、と睨みつける彩の視線に気付かない振りをしながら亜依が即答した。
「ほら、辻と加護はこんなに協力的なのに、よっすぃ、おまえよくそんな冷たいことが言えるな、
夏休み中散々ここでおごってやって、うちらの学校の話聞かせてやったのに、
これはもうサークルメンバーとかそれ以上の関係じゃないのか?」
「いや、正確には梨華ちゃんちで勉強してる私たちをいちーさんが無理やり呼び出して、おごりも彩さんの好意です。」
的確に嘘を指摘され、言い返す言葉が見つからない真里は数に物を言わせる作戦に変更した。
「ちょっと、最近の受験生は薄情だよ。紗耶香もなんか言ってよ。」
「いやぁ、やぐっつぁん言い返せないからってこっちに話振んないでよ、梨華ちゃんも困ってるし。
それにひとみちゃんたちが受験生だって分かってて呼び出してんだからさぁ・・・」
「ふ〜ん、紗耶香はよっすぃ派なんだ。」
「えっ!いや、そんなことは決して、いちーはいつでもやぐっつぁん派です!」
わざとらしくいじけてみせる真里、そして、それを分かっていながら決して逆らうことがでいない紗耶香。
呆れたひとみが隣を見ると梨華は「困ったねぇ」の笑顔で真希となにやら楽しそうに話している。
(・・・あぁ、頭痛が痛い。ねぇわたしの志望校選択間違ってる?)
「とにかく、ミーティング開始!」
形勢不利を感じた真里は、勢い任せの強攻策に出た。
「さて、さっそくですが、本日の案件『前リーダー飯田圭織を如何にしてサークルに復帰させるか』」
「戻って来てぇ、て言えばいいんじゃないの?」
ストローの空き袋でこよりを作りながら真希が眠たそうな声で応える、
彼女の手元にはすでにひとみと梨華の分を使って作られたとみられるこよりが2本転がっていた。
「そんな簡単な話ならこうやって皆を呼び出したりしないんだよ、こうなんて言うか、
こっちから頼むんじゃなくてカヲが自分からもう1回サークルに入りたくなるようにしないといけないの。」
「何でそんなめんどくさいことになってん?」
「はい、加護の質問却下!いろいろあるんだよ。」
「いろいろて・・・それだけ・・・」
明らかに不満そうな加護を無視して、真里はさっきから一言も発していない圭を一瞥する、
その見逃してしまいそうな一瞬の動作で亜依を除くその場の全員が事態の半分を理解した。
すなわち、本人達は表立って宣言していなかったが、圭織と圭が付き合っていたことは周知の事実だった。
そして、さっきの真里の視線の意味するところは2人が別れた事が今回の発端だろうと言う予測である。
正しくはその後の喫煙問題がとどめになったのだが、それを知るものは今のところ店内では彩だけだった。
「あのさぁ、あんたらそろそろメニュー交換とかしたいんだけど。」
気がつくと窓から見える空には星が出て、ボンがもう一つの顔、バーの準備を始める時間になっていた。
「もうちょっとだけ、彩さん。作戦はできたから、あとは具体的な方法決めるだけだから。」
「じゃあ、あと10分ね、あっ、それから紗耶香貸してね、誰かさんが今日は全然働かなかったから、
下準備がいまいちなのよ。ねぇ、亜依、あんた今日の分つけないからね。」
「そんなぁ、うちかて今日ちょっとは働いたで。」
「グラス8つ運んだだけでしょ。」
横座りで泣き崩れる真似をしている亜依を尻目に彩は紗耶香を連れて厨房に行ってしまった。
その後ろ姿を見送ると、真里を中心に圭を除く6人は再び熱く議論を始めた、
ミーティング開始時にはまったく乗り気でなかった受験生2人も時間が経つに連れ面白半分ではあるが、
徐々に興味を膨らませていたようだ。
「じゃあ、問題はさくら役ね。」
「それやったらうちの知り合いに心当たりが4人ほどおるで。」
「いや、あいぼん、せっかくの新キャラ候補をそんなモブ的な扱いで登場させるのはどうかと思うのれす。」
「ん?どういう意味や?」
「こっちの話れす。」
「じゃあ、やっぱりこの役はひとみちゃんてことで。」
先ほどからみんなの様子を楽しそうに眺めていた梨華が、これまた楽しそうに言った。
「えっ!なんで?」
「消去法だよ、この役はわたし達朝高生じゃない方がいいし、ののちゃん、亜依ちゃん、真希ちゃんは
飯田さんと面識がありすぎるから、残ったのはひとみちゃん。」
冷静に解説する梨華を真里はなるほどと、目を大きくして見ていたが、一つの疑問が残った。
「まぁ、それは分かったんだけど、辻、加護はともかく、何でごっちんがカヲとそんな面識あるの?
ここにきてる回数なんてよっすぃと同じであんまりカヲに顔知られてないはずじゃないの?」
「なんかね、夏休みの終わりごろよく1人で来てたって彩さんが言ってて、
その時やっぱり1人できてる飯田さんとよくしゃべってたって。」
おそらく真希の来店の真意は知らないのだろう、淡々と語る梨華の思いがけない情報網にドキリとしてカウンターの彩を睨みつけるが、
彩はにっこりと笑うとウィンクをしただけだった。
「泣いてたことは言ってないよ」。ウィンクの意味をそう理解することで真希はとりあえず、その場を逃げ出したくなる衝動からは免れた。
「じゃ、じゃあ、そういことでさくら役はよっすぃね。
決まり!終わりにしよう、ねっ。」
結局、延々とつづいた作戦会議は真希の一言で終了。
ひとみがその夜梨華を相手に予行演習をすることを確認して、それぞれの家路についた。
「やっと帰ったね、ホント何時間ソファー席占領してんだか、それにしても亜依のやつ小遣い
もらえないとなると自分のグラスも下げないで2階に行きやがって、明日も給料ひいてやろうかしら。」
ぶつぶつ言いながらグラスを下げる彩を見ながら、紗耶香は思わずくすくすと笑ってしまった。
「な〜に笑ってんのよ。」
「だって、彩さん文句言いながら、嬉しそうなんだもん。」
「・・・まぁね、(さてさて、どうなることやら)。」
カーテンを締め切ったその部屋は、まるで時間の流れが止まった、
というよりはもともとそういったもの自体が存在しないかのように空気そのものが形骸化していた。
ビールの空き缶が転がる床の上の空気は煙草の煙ですっかり犯されていた。
(これじゃあ、1年前とおんなじだ・・・)
ベッドにすがるように床に座りながら、圭織はかつての自分の姿と、
決してここへは戻るまいと思いながら今こうして薄暗い空間に身を置く自分を見比べて思わず笑ってしまった。
(私は結局どこにも行けずにずっとここにいたのかな)
中学時代の圭織は、聡明であること、そして、本人には自覚はなかったがそのすらりとした
立ち振る舞いと腰まで届こうかという美しい黒髪、そうした人の目をひく容姿からちょっとした人気者だった。
そんな圭織の母親は自分の出身校である朝比奈学院への進学を強く希望していたが、
圭織には地元を離れる意思はなく、慣れ親しんだ土地で友人達と高校生活を送ることが彼女の望みだった。
しかし、担任の勧めもあって、寮には入らず一人暮らしをさせてもらうことを条件に圭織は朝高への
進学を決意し、昨年の春無事朝高生となった。
親元を離れての暮らしには多少の不安もあったが、それよりも新しい土地で新生活を始める時独特の高揚感の方が強かった。
それに、最初こそ朝高進学に乗り気ではなかったにしろ、実際こうして都会に出てきて、
最先端の教育を受けることに多少の優越感もあった。
しかし、4月になり本格的に始まった高校生活は圭織が期待していたものとは違った。
進学校にありがちな堅苦しい校則やぴりぴりした雰囲気はなく、どちらかと言えばかなり自由な校風で、
制服もパターンが選べたりと、学校側も生徒に寛容だった。
また、クラスの雰囲気も約3分の2の生徒が中等部からの持ち上がりなので、ギクシャクした感じはなく、
和気あいあいとしたものだった。
しかし、そうした雰囲気が圭織にはなれ合いのように感じられ、好感が持てなかった。
最初、圭織には注目が集まった。
その大人びた容姿だけでなく、遠方からの生徒と言うこともあり、皆から珍しがられたのである。
けれど、どちらかと言うと人見知りする圭織にとって、それはありがたいものではなく、緊張して
おかしな受け答えをすることもしばしばだった。
そんな彼女に最初はおかしそうに接していたクラスメイト達も、そのうちに自分達のグループが
確立されるにしたがって、圭織に興味を無くし、逆に「おかしな子」として、嘲笑の対象にするようになっていった。
その頃からだった、圭織が部屋で1人酒や煙草をたしなむようになったのは。
それは10代にありがちな好奇心と学校での疎外感からの逃避が起こさせたものだったが、
いつしかそうした行為が彼女を自分の部屋という限られた空間に押し込めるようになっていった。
「カヲの髪って綺麗だね、なんかしてるの?」
担任からの電話に促され、久しぶりに来た学校でいつものように自分の存在を押し殺していた
圭織には、それが自分にかけられた言葉だと理解するのに一瞬の間が必要だった。
「あっ、ゴメンね、圭織だから、カヲって呼んでいい?」
それが当時のクラスメイト、真里との最初の会話だった。
最初彼女がなぜ自分に話し掛けてきたのか本当に分からなかった。
その頃学校に行ってももう誰も自分に話し掛けてくることはなく、1日誰とも話さずに放課後を迎えることは珍しくなかった。
しかし、それからも真里は周囲の視線を気にすることもなく、何かといっては圭織に対して積極的に接してきた。
ある日、真里のそうした行動に耐え切れなくなり、思い切ってわけを問いただした圭織が聞いた答えは思いがけないものだった。
「綺麗だと思ったから。」
からかわれている、そう感じた。
「矢口ね、今ダンスサークルつくってるんだ、って言ってもまだ2人しかいないんだけどね。
で、カヲっていっつも1人でいるからつい見ちゃって、そのうち思ったんだよ。あぁ、カヲが踊ると綺麗だろうなって。」
しかし、今まで見せたことがないような真面目な顔で語る真里の言葉に圭織は忘れかけていた
感情が深いところから戻ってくるのを感じていた。
「クラスの皆も言ってるよ、カヲはよく分からないところもあるけど、すごくかっこいいって、
うらやましいって、背が高くてモデルみたいだって、それにその髪を振り乱して踊るカヲは絶対かっこいいと思うよ。」
友達を作るのは簡単なことだと思った。
なかば強引に入れられたサークルだったが、思い切り体を動かすことは思いのほか楽しく、
クラスでも真里を相手に自然に笑顔で会話することが増えていた。
そのうち、クラスメイト達も1人2人と圭織の周りに集まるようになり、圭織は1度覚えた悪癖こそ
そのままだったが、担任が心配しなくなるほどにはクラスに顔を出すようになっていた。
そして、練習中に吐く息が真っ白になる頃、真里の提案でサークルのリーダーを決める事になった。
3人しかいないサークルでそれはどうかと思ったが、いつかは部にしたいと言う真里の熱意に
押し切られる形で、圭をサブリーダーにすることで、圭織はリーダーを引き受けた。
圭はサークルに入ってから初めて知り合ったのだが、彼女は圭織とは別の意味で不思議な人だった。
クールに見えて、その瞳には常に熱意とか情熱といった強い意志が宿っていた。
その瞳は真里の屈託のない笑顔に次いで、圭織が朝高に来てみつけた2つ目の好きなものだった。
始まりはとても自然なものだったと思う。
以前はクラスが違うことでサークルの活動中くらいしか会うこともなかったが、リーダーと
サブリーダーという役職がついたことで共に過ごす時間が増えていた。
今思えばそうなることを見越して真里が仕組んだのかもしれない。
だけどそんな事はどうでもよかった。
それは告白と言うよりは約束だったかもしれない、そして、今思えば恋愛感情というよりも
自分の必要としているものを補完したい欲求だった気がする。
しかし、それはあまりにも悲しい推測だと思った。
なぜなら、あの屋上で圭と過ごした季節はあまりにも温かかったから。
耳慣れた音で不意に現実に引き戻された。
最初は気のせいかと思ったが、どうやら本当にインターホンが鳴っていた。
この家に訪問者なんて来る筈ないのに、唯一可能性のあった人は今ごろあの屋上で軽快な音楽に身をまかせている頃だ。
「・・・どうも。」
ドアの前に立っていたのは思いがけない人物だった。
「あの・・・、矢口さんから家聞きました・・・」
明らかに緊張している目の前の少女を圭織は何度か見たことがあった、夏休みの間、
彩の店で紗耶香がときどき梨華を呼び出しては必ずいっしょにやって来た中学生だ、名前は確か吉澤とかいった。
「・・・どうしたの?」
当然の疑問だ。
しかし、目の前の少女、ひとみはなかなか応えようとはせず、上がるように促す言葉にも
申し訳なさそうに「いえ」とか言いながら首を振るだけだった。
「用がないなら、悪いけど。」
言いながら圭織がドアを閉めようとするとひとみはすごい力でその手を抑える。
「紗耶香さんから聞きました、サークル辞めたって・・・
わたし先輩とはあんあまり話したことないけど、先輩のダンスが好きです。朝高に入ったら
絶対ダンスサークルはいるって決めてたのに・・・」
うつむきながら泣き声で叫ぶひとみを見ながら圭織は彼女がどうしてここにいるかようやく理解した。
「私のダンス好きって言ったけど、いつ見たの?」
「去年の文化祭のエキシビジョンの時です、わたし学校見学に行って、その時すごくかっこいいなって。」
ひとみは目を潤ませながら上目遣いで圭織を見つめていた。
「はい、45点!」
口元に笑みを浮かべながら突然圭織はひとみに言い渡した。
とっさのことに驚いたひとみは、先ほどまでの泣き顔モードから間抜け顔になっていた。
「あのね、吉澤さん、いいこと教えてあげる、人間って言うのは実際見たものを思い出す時と、
空想する時では目の動き方、詳しく言うと左右どちらに瞳が動くかに違いが出るのよ。」
おかしそうに話す圭織を、ひとみはあっけにとられて見ていることしかできなかった。
「つまり、あなたは実際には私達のエキシビジョンなんか見てないの。
これが意味するところは・・・矢口!違う?」
観察力、頭のよさ、冷静さ、何に驚いていいのか分からずひとみが口をぽかんと開けていると
圭織は今度こそ本当にドアを閉めながら言った。
「じゃあ、ご苦労様、そういわけで、矢口達に言っといて、辞めたのは私の意思だから余計なことしないでって。」
ガチャンというドアの閉まる音で我を取り戻したひとみはとっさに目の前のドアを力任せにひっぱった。
「ちょっ、何するのよ!」
「嘘ついたのはゴメンサイ!だけど、みんな本当に飯田さんのこと心配してました、
戻って来て欲しいって言ってました。だから、余計なことじゃないです!」
「でも、その気持ちに応える義務は私にはないの、それに辞めたのは私の意思だって言ったでしょ。」
顔を赤くして興奮気味に話すひとみとは対照的に、圭織は微笑さえ浮かべながら、淡々と応えた。
「あんたの意思って何よ!」
みたびドアを閉めようとした圭織の耳にエレベーターホールに続く廊下から怒声が飛び込んできた。
それはついこの間まで何度も耳にした懐かしい声だった。
「確かにあの時私はあんたに辞めろって言おうと思ったよ、だけどそれはその後あんたが
『いやだ、辞めないって』泣いて頼むことが前提なんだよ。」
圭の突然の登場に呆然とするひとみを尻目に2人の会話は続く。
「誰が泣いて頼むのよ。」
「辞めたくないんなら、辞めたくないって言いなさいよ。」
「だから私はサークルなんかに何の未練もないの!」
「じゃあ、何で学校も来ないでこんな煙草臭い部屋にこもってんのよ。」
部屋の前まで来た圭は圭織の薄暗い部屋をドアの外から指差しながら言い放った。
「いいじゃん、もう、欲しいものは欲しいって言おうよ。
圭織はもう前みたいに欲しいもの我慢しなくなったじゃん、だから、私も別れたんだよ。」
圭の予想外の言葉に2人は何も言えずにただ次の言葉を待っていた。
「分かってたんだよ、圭織は私のこと愛してないって・・・」
「そんな、わたしは圭ちゃんのこと好きだよ。」
「そう、好きなだけ、でも、愛してるとは違う。
って偉そうなこと言ってるけど私も最近までそんなこと考えたことなかったんだよね。」
泣き笑い。その時の圭の表情を形容する言葉は他に見つからなかった。
「圭織、私今好きな人がいる、それに気付いた時私達がやってきたことが違うって気付いたの。
私たちは一体お互いの何を必要としていたの?そう考えた時、私には思い当たるものが多すぎた、
だけど、今好きな子には私は何も求めてないの、ただ、好きなこと、それが幸せなの。」
「・・・ちがう!確かに私は寂しかった、そこに圭ちゃんがいてくれた、だからかも知れない。
けど、私は圭ちゃんが好きだよ、圭ちゃん勝手だよ、私は・・・私だけ置いていって、私一人だよ。」
「好きだ」という言葉がとても乾いていた。
気付いていた、圭に対する自分の気持ちと圭が今言った好きなことが幸せという気持ちの間には
計り知れない距離があることを、けれど、それを認めることはできなかった。
先ほどとは逆に泣きじゃくる圭織の頭を、圭は母親のような笑顔で抱きしめていた。
「大丈夫だよ、圭織は前の圭織とは違う。だから圭織は私から離れていこうとしたんでしょ?
このまま私と付き合ってると、きっといつまでたっても寂しいまんま、ダメになっていくから、
そう思ったから。でももういいんだよ、一人で無理しなくても。」
「・・・でも、でも・・・圭ちゃん、私圭ちゃんがいなくなったら、やっぱり一人になっちゃうよ・・・矢口は
紗耶香と仲良しだし、嫌だよ、もう一人はいやだよ。」
冷静でかっこいい圭織はそこにはいなかった。そこにいるのは怖い夢から覚めた子どものように声をあげてなく一人の少女だった。
そんな圭織を見つめるひとみは「そんなことないですよ」という簡単な一言が言えずにいた。
ひとみ自身も同じように大声で泣いたことがある、そんな時、本当に欲しい言葉が存在するのと
同時に、その言葉を伝えるにはある種の資格が必要であることを知っていたからだ。
「いいらさんは1人じゃないのれす!」
圭が現れた方向から、今度はさっきよりもかなり幼い声が響いた。
「いいらさんにはののも、みんなもいるのれす。」
そういいながら早足で近づいてくる希美の後ろには先日のボンでの面々が勢ぞろいしていた。
「ちょっとなんでみんな来てるんですか?」
「うるさい、失敗工作員!」
今日何度目かの驚きを隠せずに訊くひとみを真里が怒鳴りつける。
「失敗って・・・」
「よしよし、ひとみちゃんはよくやったよ。」
愕然とするひとみの頭を梨華がよしよしと撫でている。
「いいらさんは一人じゃないのれす、だから泣かないでください。」
そう言いながらすでに驚きのあまり泣き止んでいる圭織に、希美は号泣しながらしがみついていた。
「うわっ、クサ〜。飯田さん窓開けますよ。」
「冷蔵庫の豚肉つこてもいい?」
「あっ、お酒冷やしときますね。」
掃除に料理とそれぞれの得意分野をてきぱきとこなす面々、それを呆然と眺めている圭織の
膝にはいまだに「1人じゃないのれす〜」とか言いながら顔をうずめている希美がいた。
「ねぇ、どういうこと」
怒気を含んだ声でたずねる圭織に、空き缶を片付けていた真里が振り返って応える。
「いやぁ、まぁ、よっすぃが失敗したら、とりあえず宴会に持ち込んで、何とかしようと思ってたんだけど、
予想外の圭ちゃんの登場で、なんかあらかた解決してたみたいだから、いっかなっと。」
「まったく、みんな何考えてんだよ。」
「かおり、そんな赤い目でかっこつけてもきまらないよぉ!ってなにすんだよ!!」
言い終わらないうちにとんできた灰皿を真里はすんでのところでよけた。
「あっぶないなぁ、当たったらどうするんだよ!」
「おとなしく怪我しろ。」
その時の圭織の笑顔は、かつて圭織があこがれていた真里のそれに引けを取らないほど輝いていた。
「うぇ、気持ち悪・・・」
中学生組では唯一最後まで頑張っていた真希が立ち上がってトイレに消えていった。
「ねぇ、やっぱちょっと多かったんじゃない、うちら以外みんなしんでるよ。」
「いいんじゃない、明日休みだし、それに私の泣き顔見た罰だよ。」
すっかり静かになった部屋では、真っ赤な顔をした圭織と圭が大量の空き缶の中で、
お互いの背中にもたれあいながら、独り言の言い合いのような会話を続けていた。
「圭ちゃん。」
「うん?」
「私さぁ、ビールってあんま好きじゃなかったんだよね、安いけど。
苦いじゃん、けどさぁ、今日は結構うまかったかも。」
「なにそれ?」
「なんだろね・・・」
「何の話れすかぁ」
トイレから戻ってきた真希は普段の希美のようなろれつの回っていない口調で2人の間に入ってきた。
「何の話だっけ・・・」
「あっ、そうだ!私圭ちゃんの好きな人分かったかも。」
「えっ、誰れすかぁ?」
「言わなくていいんだよ!」
おぼつかない足取りで立ち上がる圭、しかし、すぐに倒れこんでしまい、そのまま眠ってしまった。
「ねぇ、真希ちゃん。」
「はい?」
「私、煙草やめよっかなぁ。」
「それいいと思いますよぉ。」
「うん、じゃあ、そうしよっかなぁ。」
おもいおもいの格好で床に寝そべっている少女たちを見ながら、圭織は最後の1缶を味わっていた。
窓の外には見覚えのある星座が輝いていた、きっと明日もいい天気だろう。
(クスッ、写真撮っといてやろ)
どこかにしまいこんだデジカメを探しに立ち上がった圭織の目に入ってきたものは、
おとついの夜から電源を切ったままにしておいた携帯だった。
明日あたり電話してみようかな。
突然実家の母親の顔が浮かんできた。
(ずっとここにいたのにねぇ)
すっかり酒臭くなってしまった部屋を見渡しながら、圭織はこの数日の出来事をガラス細工を扱うように思っていた。
空になった缶を床におき、風に当たろうとベランダに出ると、先ほどにもまして星が輝いていた、
けれど、今度はぼやけてよく見えなかった。
(まったく、こんな恥ずかしいことだと思わなかったよ)
ふといつか誰かに言われた言葉を思い出した。
部屋の中で醜態をさらしきっている少女たちを見て、
圭織は大声で笑ってしまいそうになるのを必死でこらえた、みんなを起こしたくはなかったから。
その夜の風はとても心地よく、圭織のほてった頬をいつまでも優しく撫で続けた。
『やさしい風景 〜世界一のビール〜 』
おしまい。
番外編 〜オーナーのお仕事〜
私は普段滅多に電車には乗らない。
電車には私の嫌いなものが2つあるからだ。
1つ目は酔っ払い、そして2つ目は子ども、特にわけのわからない奇声をあげているなど、もってのほかだ。
そして、私は今、人生の不条理と自分の浅はかさを感じながら、目の前の惨状に対して、アプローチしてみることを決意した。
「・・・あの〜、真希ちゃん、起きてるかなぁ?」
「ハイッ!真希ちゃん、起きてますっ!」
先ほどから目の前で突っ伏していた真希は、声をかけらると一瞬肩を震わせたかと思うと、
ストゥールを後ろに倒しながら、カウンターに手をついて勢いよく立ち上がった。
「いや、立たなくていいから、また倒れるから。」
カウンター越しに彩に支えられながら、真希は再び先ほど蹴倒したストゥールの隣に腰をかけると、
今度はカウンターの上に両手とあごを乗せてベチャリという音が聞こえそうな、体勢で落ち着いた。
見ると、先ほどまで真希が座っていたカウンターのあたりはサンドイッチの空き皿とピスタチオの
殻、そして、空になった7つのタンブラーが散乱していた。
(あぁ、どこで間違ったんだろ)
自嘲気味につぶやく彩、しかし、無人の店内には彩の呼びかけに応えてくれる者はいなかった。
話は2時間ほどさかのぼる。
6時を過ぎ、本来ならこの時間くらいからバー開店の準備を始めるのだが、その日は訳あって、
「臨時休業」と書かれたプレートを張り出そうとしていたところへ、災難は現れた。
「あれっ、真希ちゃんどうしたの?」
「うっ、うっ、彩さ〜ん」
店の入り口にプレートをかけ、振り返った彩の目の前にはぐじぐじと泣いている真希がいた。
どうやら歩きながらずっとこの調子だっただらしい、真希の後ろには好奇の視線を送る通行人が4,5人はいた。
これはまずい、と思ったが、放っておくわけにもいかず、店の中に入れたのだが、真希はぐずっているばかりで何も言わない、
しょうがないので薄めに作ったジン・フィズを出してやった。
これでとりあえず、おとなしくなってくれればいい、そう思っていたのだが、これが今回の失敗の始まりだった。
「ねぇ、彩さん聞いてます?」
すっかり現実から逃避していた彩の手を握りながら真希がすがるようにして身を乗り出している。
「でね、よっすぃなんか昨日、『明日?う〜ん、あっ、第4火曜日、粗大ゴミの日だね、
梨華ちゃんが古い本棚捨てるって言ってたから早起きして手伝わなくっちゃ』って言ったんだよ。
粗大ゴミだよ、粗大ゴミ、アタシ達の10年来の友情は、町内の決まりごとに負けたんだよ。」
先ほどからこの粗大ゴミという言葉を何度聞いたことか、酔うと同じ話を繰り返す人間は数多く
見てきたが、これほどしつこいトラはいまだかつて見たことがなかった。
「ねぇ、今日辻、加護は?」
「だから、あいつらは今日は圭織のうちに遊びにいってるって。」
今日何度目かの説明をし終わって、彩はすぐに後悔した、このあとの展開も予想できたからだ。
「うっ、うっ、そんなの嘘だね、あの二人は仲良しだから、今ごろ2人きりで遊んでるんだよ、
それに圭織だって、なんだかんだ言って圭ちゃんとより戻して今ごろ部屋でよろしくやってるに
決まってるよ。いちーちゃんはどうせやぐっつぁんと一緒だし・・・アタシだけが独りなんだぁ〜!」
一気に叫ぶと真希は再びカウンターの上に倒れこんだ。
(助けて・・・)
その時、絶望的なまなざして真希の後頭部を見つめる彩の願いが通じたのか、店の扉が勢いよく開いた。
「いやぁ、重かったのなんのって。」
「嘘ばっかり、いちーさんさっき交代したばっかりでしょ、ほとんどわたしと梨華ちゃんで運んだのに。」
「そうれす、いちーさんは今日一番働いてないのれす。」
「辻、人の事はいいからちゃんとまっすぐ持ちなさい、それ倒したら反省10回じゃすまないよ。」
「彩さ〜んお待たせ、おいらのど渇いちゃったよ。」
「って、何で後藤さんがもうおるん?」
「あれっ、ホントだ石川、あんた電話したの?」
「いえ、私してないですよ。」
ぞろぞろと店内に入ってくるいつもの面々、そのうえ紗耶香とひとみははなにやら巨大な木製の
かたまりを、辻も両手で抱えるようにして大きな白い箱を抱えている。
そして、その他の面々も紙袋やコンビニの袋をぶら下げながらやって来た。
「あんたたち、遅いよ!」
楽しそうに入ってくる8人に、彩は明らかに疲労が見て取れる顔で怒鳴りつける。
「えっ、彩さんどうしたんですか、それにごっちんなんかすでに出来上がってるし。」
ひとみの声に反応したのか、真っ赤な顔をした真希が振り返ると、そこには状況が把握できず、立ち尽くす友人達の姿があった。
「・・・みんな、何で・・・?」
突然のことに呆然とする真希を尻目に、ニヤニヤしながらそれぞれの荷物をテーブルや椅子の上に置くと、
彩を含めた9人が声をそろえる。
「おめでとう、15歳!」
ようやく事態を把握し、それでもあっけにとられている真希を中心にそれぞれが席に着いていた。
彩はというと、ぐったりした様子で紗耶香と亜依に肩や腕をもんでもらっていた。
そうこうするうちに飲み物が行き渡り、準備が整うと、口火を切ったのはひとみだった。
「さて、これが梨華ちゃんとわたしから、ごっちん前に部屋にこういうの欲しいって言ってたよね、最近本増えたからって」
そう言うとひとみは店の片隅に置いてあった、本棚をずるずると運んでくる、途中、彩の「床がぁ〜」という声は無視された。
「さすがにピンクのまんまじゃかわいそうだから、私とやぐっつぁん、それとひとみちゃんと梨華ちゃんで塗りかえたんだよ。」
「ピンク可愛いのに・・・」
じとりと睨む梨華から視線をはずしながら、紗耶香は隣の真里を小突く。
「そうそう、それと、その中身として、これは矢口と紗耶香からです。」
真里が差し出した数冊の本の中には、参考書だけでなく、最近真里に貸してもらって、欲しいな思っていた本も何冊か入っていた。
「じゃあ、プレゼント贈呈も終わったことやし、そろそろケーキ切ろか。」
先ほど希美が抱えていた白い箱をテーブルの真中に置くと、亜依は真希によく見えるようにふたを開けた。
その中には箱の大きさにふさわしい大きなショートケーキが入っていた、そして、ケーキの上には
「Hapy Barsday」とホワイトチョコレートでかかれた板チョコが乗っていた。
「・・・ごめんなさい、スペルを間違えたらしいのれす・・・」
「まぁ、そういうわけで、これはうちとのの、飯田さんと保田さんの合作です。」
「と、言っても辻と圭ちゃんはほとんど居ただけだけどね。」
「ちょっと圭織、私だって手伝ったでしょ。」
「やすらさんはあいぼんの邪魔してただけなのれす・・・痛い、痛いのれす!」
あまりのことに知らないうちに涙がこぼれそうになっているのを悟られまいとうつむいていた
真希の耳に希美の叫び声が飛び込んでくる、何事かと顔あげると、圭に後ろから両方の
ほっぺたを思い切り引っ張りあげられている希美の顔があった。
「あはっ、変な顔。」
真希のその一言で、店中に笑い声が溢れた。
「まったく騒々しいったらありゃしない。」
主役の真希をそっちのけで、開始から2時間、いまだ盛り上がりの衰えないパーティをカウンター
から見つめる彩と真希。
「今日はありがとうございました。」
「いいのよ、またなんかあったら貸切くらいしてあげるから、早めに言いにおいで。」
彩は先ほどまでの酔っ払いに優しく微笑みながらゆっくりと煙草をくゆらせた。
「・・・そうじゃなくて、その・・・」
「ん?」
「なんでもないです、ありがとうございました。」
言いながらカウンターを飛び越えると、真希は皆がいる方に駆けていった。
「コラッ!お行儀!まったく・・・」
とりあえず怒鳴ってみるが、真希の背中を笑顔で見送る。
(まったく、どいつもこいつも・・・これだから・・・客商売はやめれません!、ってね)
すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けると、紗耶香がつくってくれた水割りを一気に飲み干した。
水割りは、紗耶香にしてはなかなかのできだった。
〜だきしめたい〜
「ねぇ、圭ちゃん文化祭どうなった?」
「・・・一応OK出たよ。」
10月に入り、教室の窓から見える景色は、すっかり秋一色だった。
空にはやわらかな鰯雲が広がり、校内の木々もその美しさを競い合うように、鮮やかな色彩をはなっていた。
この季節、朝高生にとって大きなイベントが2つある、1つは10月中旬の中間試験、そして、11月初頭の文化祭である。
「じゃあ、今年もエキシビジョンで出場できるんだね!」
始業前の教室、真里は登校してきた圭を鞄を置く間も与えず捕まえていた。
その朝、真里は珍しく始業30分前には教室に到着していた。昨日行われた文化祭企画会議の
結果が気になって、いつもよりもかなり早く目が覚めてしまったのだ。
「ただね、条件付きなんだよ。」
「条件?」
「今回の中間で誰かが1つでも赤点取ったら、エキシビジョンは見送り、だって・・・」
真里の所属するダンスサークルは学校非公認のクラブ活動のようなもののため、
教師の中には文化祭のステージに立つことを好ましく思わないものもいるのである。
「ゆうちゃんとか結構頑張ってくれたみたいなんだけど、どうしてもその線だけはどうにもならなかったらしくて。」
結果報告をする圭の表情は、まるでエキシビジョンができないという報告をしているかのように絶望的だった。
「な〜んだ、条件って言うからどんな大変なことかと思ったら」
先程から圭とは対象的に楽観的な態度だった真里が言いかけて固まる、どうやら圭が危惧していることが理解できたようだ。
「まずい!まずいよ圭ちゃん、それすっごくヤバイよ!」
周りの生徒が何事かと真理達の方へ視線を送る、しかし、それにも気付かないほど真里は取り乱していた。
「で、カヲリはなんて?」
「条件言い渡された瞬間固まってそれっきり・・・」
((今年はダメかも知れない))
そんな2人の不安をよそに1時間目の開始を知らせるチャイムが無機質に響いていた。
午後の授業も終わり、それぞれのクラブや家路に向かう学生たちで賑わう放課後。
屋上の更に一段上に設置された貯水タンクの側には額を寄せ合う3人の姿があった。
「さて、どうする?」
「どうする、って言ってもねぇ。」
「実際アイツってどれくらいなの?」
「矢口が梨華ちゃんから聞いたところによると、かなり壊滅的らしい。」
「ここはやっぱりスタンダードにカテキョしかないか。」
練習を前にして集まった真里、圭織、圭の3人が頭を悩ませていたのは例の文化祭参加への条件のことだった。
と、言っても彼女達3人に関してはまったくと言っていいほど問題はなかった、
圭織は入学以来ペーパーテストの点数だけで言えば常にトップクラス、
圭もその真面目さが幸いして圭織ほどではないにしても優秀な成績だった、
そして、真里も他の2人には劣るとはいえ赤点など取ったことはなかった。
問題は、今ここにいない唯一の1年生メンバーだった。
中等部以来、補習と梨華の存在無くして紗耶香の進級はなかったといっても過言ではない。
決して頭の悪い子ではない、はずだが、体質的に勉強が合わないらしい、というのが梨華の見解だった。
「で、誰が教えるの?」
「カヲリはいやだなぁ・・・」
「そんな、私だって嫌だよ。」
「ちょっと、成績優秀組がそんな事言わないでよ、と、言うわけで矢口も嫌だよ。」
皆別に紗耶香の事を嫌いなわけではなかった、
しかし、梨華曰く『いちーちゃんに勉強を教えるっていうのは技術とかの問題じゃないんです、忍耐力と精神力です。
たとえるなら、穴を掘ってそれをまた埋めるだけの作業を丸1日、ずっと続けるようなものです』
そんなことを聞かされて、誰が一体そんな作業をすすんでやりたいと思うだろうか。
「じゃあ、2交代制ってことで・・・」
「そうだね、私とカヲリが1日づつ交代で教えて、矢口は毎日それに付き添う。」
「えっ〜、何で矢口だけ毎日?不満不満。」
「飴と鞭!特に紗耶香の場合飴の効果が絶大だから短期間でパワーアップさせるにはこれしかない。」
このサークルにおいて圭の一言に逆らえるものはいなかった、実際今回のケースでも圭の提案は非常に的を得ていた。
紗耶香が夏休み中にサークルに参加するようになったのは真里の存在が原因であることは本人は否定していても一目瞭然だった、
それに、サークルの練習でも紗耶香が最も力を発揮するのは真里とペアを組んだ時だった。
「・・・エキシビジョンのためだからね。」
不満をありありと残した口調で真里がつぶやくように応えた。
圭の言ったことは真里自身も充分理解していたのだが、
こうした提案を素直に受け入れられるほどには真里と紗耶香の関係は進展していなかったこともまた事実だった。
3人の話し合いが半ば強引にまとまったその時、鉄製のドアが開く音がした。
紗耶香が来たのかと、下を覗き込む3人の思惑に反してやって来たのは紗耶香ではなく、
大きなひとみが印象的な、おとなしそうな少女だった。
「(カヲリ、あの子カヲリのクラスの子だよね?)」
「(うん、だけどあんまり喋ったことないからよく知らないんだけどね)」
屋上の手すりにもたれたり、その場をくるくると歩き回ったりと落ち着かない様子の少女に気を使うように、
3人は声をひそめてその様子を見守っていた。
そして、そうこうしているうちに再びドアの開く音が響き、今度は3人のよく知る少女が現れた。
「待たせいちゃいました?」
申し訳なさそうに尋ねる紗耶香に、少女は消え入りそうな声で「いえ」と応えながら、軽く首を横に振った。
「(これはもしかして、そういうシチュエーションかな?)」
「(そう考えてほぼ間違いないでしょう)」
紗耶香たちに見つからないように、圭と圭織は目を輝かせながら、身を乗り出して下の様子をうかがっていた、
しかし、真里だけはその2人に背を向けるようにして下の2人の会話にそっと聞き耳を立てていた。
「・・・その、変だと思うかも知れないけど、私は女だけど市井さんのこと好きです・・・
市井さんが、そういうの嫌いだって言うのも聞いたことあるけど、けど、私・・・」
先程よりは幾分大きいが、それでもささやくような声で少女は懸命に紗耶香に思いを告げていた。
そして、その様子をじっと見つめていた紗耶香は、少女が言い終わると優しく微笑みゆっくりと口を開いた。
「先輩の情報は少し古いですよ。」
紗耶香の思いがけない優しい口調にそれまでじっと下を向いていた少女が驚いて顔を上げたのを確認すると、
紗耶香は再び先程と同じ笑顔で続けた。
「確かに以前のわたしは先輩が言うように、わたしに思いを告げてくれた人たちに対して、
ひどい仕打ちをしてきました、けど、今ならそんな気持ちをとても嬉しく思えるんです。
・・・ただ、それでも私は先輩の気持ちには応えられないんです、ごめんなさい。」
紗耶香の声は少し震えていたものの、凛として、紗耶香の本心からの言葉を伝えるにふさわしいものだった。
そして、言い終わった紗耶香は少女に対して深々と頭を下げた、
その横顔はたった今自分の気持ちが受け入れられないことを告げられた少女よりも痛々しかった。
「・・・そんな、顔を上げて。」
しばらくの間を置いて少女は紗耶香に歩み寄ると、両手で紗耶香の肩に軽く触れ、
紗耶香が少女のほうを向きなおそうとした瞬間、紗耶香に抱きついた。
「ちょっと、先輩!」
突然のことに驚きながらも、少女を突き放せないでいる紗耶香の耳に少女がなにかをささやくと、
じっと固まっていた紗耶香も少女の肩を抱きすくめるように押さえた。
「ありがとう。」
時間にすると30秒もなかっただろう、しばらく紗耶香に抱きしめられていた少女は紗耶香を両手で押しのけ小走りで屋上をあとにした。
「(う〜ん、新人の市井紗耶香、このところタラシっぷりに磨きがかかっているという噂でしたが、
この対応をどう見ますか、解説の飯田さん。)」
「(彼女なりの優しさや誠意の表れだと思いますが、あれではかえって罪ですねぇ、また、無自覚のところがたまらないんでしょう。)」
紗耶香達の様子を上から観察していた圭と圭織は、口元に笑いを浮かべながら振り返る。
すると、そこには案の定複雑な表情を浮かべる真里がいた。
真里は下の様子を見ないようにしていたのだが、惹きつけられるようにして、いつのまにか圭織たちの後ろから一部始終を見ていた。
そして思った。
(見たくなかったよ・・・)
真里がこうした場面を見るのは今回で2回目だった。
1回目は夏休みに入る前のこと、今日と同じように練習前の屋上で当時の紗耶香は告白してきた
少女に切り捨てるような対応をしていた。
そして、それを真里が見咎めたことで現在に至る縁が出来上がったのだ。
真里にしてみれば、当時の紗耶香を認めるわけにはいかない、
しかし、いつも、いつでも『やっぐつぁん』と言って自分を追いかけてくる紗耶香が他の少女を抱きしめている光景は、
それが如何に紗耶香の優しさの表れだとしても、同様に受け入れがたいものだった。
以前から紗耶香はもてた、しかし、夏休みが明けてしばらくした頃から、紗耶香の変化に気付いた生徒達の間で、
その人気は絶大なものになっていた。
真里はそうした紗耶香の変化に自分の存在が絡んでいること、そして、
そんな人気者の紗耶香が自分を追いかけてくれることを密かに誇らしく思っていた。
しかし、今、目の前で見知らぬ少女を抱きしめる紗耶香は、真里が知らない紗耶香だった。
その横顔は普段真里が見慣れているものよりもずっと大人びていて、慈愛に満ち、はかなげで素直に綺麗だと思った。
そして、それを見てしまったことで今までひた隠しにし、気付くまいとしてきた鉛のような感情がじわりと胸のあたりに広がるのを感じた。
真里の中で誰かがささやく。
(おまえなんかが紗耶香に本当に愛されるわけない)
少女が立ち去った屋上では紗耶香が脱力して、大きなため息をついていた。
「な〜にが『フゥ』だよ。」
「うわぁ!保田さん、それに飯田さんも、何してんるんですか。」
「一部始終を観察してた。」
「・・・最悪の趣味ですね。」
悪びれた様子もなく、自分のいるところへ降りてくる2人に紗耶香は恨めしそうな目で毒づいていた。
「あれ〜?そんなこと言っていいんだ、矢口も一緒に見てたのに。」
しかし、先に降りてきた圭織が指差した先には、ばつが悪そうに顔を覗かせる真里がいた。
「やぐっつぁ〜ん。」
「よっ、ワリィ、2回目だな。」
泣き出しそうな情けない声で訴える紗耶香に真里は苦笑いで返すしかなかった。
「もう、いつまでも怒ってんじゃないの、不可抗力でしょ。
それにそんな紗耶香にとってもいいニュースとちょっと悪いニュースがあるんだけどなぁ。」
3人に現場をおさえられた事がよほど恥ずかしかったのか、いつまでもブーたれている紗耶香の
顔を覗き込むように、圭織が声をかけ、文化祭の一件と先程の話し合いの結果、すなわち、
紗耶香にカテキョとして先輩3人がつくことを伝えた。
紗耶香は文化祭参加のための条件を聞かされた時は、この世の終わりのような表情を
浮かべていたが、話が家庭教師、それも毎日真里が参加することを聞き終わると、
隠そうとしてはいても、その顔からは笑みがこぼれ落ちていた。
「何でそんな嬉しそうな顔してんだよ。」
ここで普段ならそう言いながら紗耶香の後頭部を軽くはたく真里、しかし、今日は苦笑いで応えるのが精一杯だった。
「これで合ってます?」
「うん、問題ないよ、何でこれが解けるのに成績がアレなんだろね。」
紗耶香が持ってきた数学の答案を、圭織は本当に不思議そうな顔で見つめていた。
さっそくその日から始められた紗耶香の特訓は、圭の予想を越えて順調だった。
理解力、集中力は申し分ない紗耶香、結局、紗耶香の成績が伸びなかったのは学習への意欲が
極端に欠落していただけなのでは、その日の紗耶香はそんな気にさせるほど、いきいきと問題を解き続けていた。
「ねぇ、やぐっつぁん、見てよ、私こんな難しいのもすらすら解けたよ、すごいっしょ。」
圭織が教えている間、何をするでもなくぱらぱらと雑誌をめくっていた真里に紗耶香が嬉しそうに寄ってきた。
しかし、真里は適当に相槌をうつだけだった。
その場にいながら真里の意識はそこになかった。
時々視界の片隅に入ってきた紗耶香と圭織の姿ははた目にも絵になっていて、その様子はより一層、
その時真里の中に芽生えつつあったもやのような感情を具現化させていたのだ。
紗耶香と出会ってまだ2ヶ月ほどしか経っていないが、その間に紗耶香は急速に変わっていった。
初めて出合った頃の紗耶香は多くのものを拒絶して、自分の持つとても小さな世界で生きていた。
そして、そのうちに自分の世界を開放すると同時に、周りの世界を吸収していった。
そうした変化の象徴のように、紗耶香は真里に好意を示し始めた。
それは対象である真里自身にもたやすく感じられる、稚拙とも思えるほどまっすぐなものだった。
そんな紗耶香の存在は真里にとっても新鮮であり、いとおしさを感じさせた、
しかし、同時に常に意識していたのは、それが不変のものではないということ。
「いつか彼女は自分から離れていく」
考えてみれば当然の事だった。雛はいつまでも雛ではいられない。
今日屋上であの少女にしてみせたようなことは、成長と言う時間の中で彼女が手に入れた『他人への思い』の片鱗だろう。
自分は紗耶香にとって通過点の一つ、そう考えていた、そして、それでいいと思っていた。
(そうだ、これでいいんだ・・・)
真里の気持ちとは関係なく、時間は流れる。
圭織の家、図書館、時には彩の店と、場所を変えながらも紗耶香のテスト勉強は順調だった。
そして、数日が経った頃、真里の変化に最初に気付いたのは圭だった。
「ねぇ、紗耶香となんかあった?」
その何気ない口調に真里は驚きで飛び上がりそうになったが、いつも通りを装うためにできるだけ明るいトーンで応えた。
「なんかってなんだよぉ。」
「それがよくわからないんだけどさぁ、すごい避けてるようで、でも、一緒にいると前より
優しくしてるようにも見えるし、ほんとなんかあったんじゃないの。」
「ないない、考え過ぎだって」
いぶかしそうな顔をする圭にひらひらと手を振りながら、とりあえずその場は切り抜けたが、
後になって思えば、この時圭にちゃんと相談できていれば、また違った流れが生まれていたかも知れない。
そして、その日の放課後、それは起こった。
担任に呼ばれた圭を置いて、一人屋上に向かう真里の目に飛び込んできたのは、黒山の人だかりだった。
その中心には例の掲示板、どうやらまた誰かが何かを張り出したらしい。
生徒達の背中に阻まれながらも、背の低い真里にもかろうじて読めたのは、一番上の大文字で
書かれた『学院の人気者たち、その本命は?』だった。
非常にありがちではあるが、古今東西、最も注目を集めやすいテーマの一つだ。
その時はそれどころではなかったので、そのまま行きすぎようとした真里だったが、何かがおかしい。
背中に感じる違和感、振り返ると、そこには好奇の視線を送る少女達がいた。
直感的にあの掲示物に自分に関することが書かれている思った。
その予想を裏付けるように、真里が掲示板に向かいきびすを返すと、少女達は掲示板までの
道をつくるかのように、ばらばらと散っていった。
模造紙の中でもひときわ大きなスペースを占めていたのは
『あの1年生、市井紗耶香の本命は』と、真っ赤なマジックでタイトルが書かれたコーナーだった。
その大きなスペースは紗耶香の校内での人気の高さを如実に表していた。
しかし、実際は特定の相手がいない紗耶香、そこで、この掲示物の作成者達は校内で紗耶香と仲のよい人間をピックアップして、
誰が紗耶香の相手にふさわしいかを勝手にランク付けしていた。
彼女達によると、紗耶香の本命は梨華らしい、同じクラスでいつも一緒にいる2人、誰がどこで撮ったのか、
ご丁寧に2人が仲良く手をつなぐ写真まで張り出されていた。
他にも、サークルの先輩である圭織や圭などの名前が連ねられていた。
そして、コーナーの一番下、わざわざ囲みにされて真里の名前があった。
『大穴』の評価付きだった。
「サークルの先輩というだけで、やたらと市井紗耶香にまとわりつくマスコット」
記事の内容は紗耶香にとって真里が如何にふさわしくないかということが、真里の身長の低さをはじめとして、
見方によっては長所とも取れる真里のパーソナリティを原因として延々と書かれていた。
ショックだった。
女子高という閉鎖的な環境が持つ、こうした残酷な側面にはある程度なれていたつもりだった。
しかし、実際に自分が中傷の対象になるなんて思ってもいなかった。
しかし、それよりも悲しかったことはあの記事を見たとき、一瞬でも
「紗耶香と関わっていなければ、こんな目に遭うこともなかった。」
と、思ってしまった自分がいたことだった。
激しい自己嫌悪。
もちろん、今回の事と紗耶香はまったく関係ない。
けれど、そう自分に言い聞かせるたび、紗耶香の輝くような笑顔が浮かんで、そんな紗耶香の
輝きと今の自分自身を比べてしまい、嫌悪は募るばかりだった。
そして、唐突に気付いてしまった。
それまで気付くまいとしてきた感情が、紗耶香が他の子に優しくすることに対する嫉妬や、
紗耶香が自分から離れていく不安ではなかったことに。
紗耶香の変化を戸惑いながらも喜び、そして、紗耶香が自分から離れていくことも
良しとしていた、年上のしっかり者、明るく紗耶香を導いてきたつもりの自分が、つくりものだったことに。
次の日から真里は紗耶香の家庭教師に参加しなくなっていた。
理由は自分の試験勉強のためということで充分だった。
「けどさぁ、練習にも来ないってどういうつもり?」
「試験が明けたらちゃんと行くから、今回は矢口もちょっと頑張ろうかなって、思ってるんだよ。」
家庭教師不参加はまだしも、サークルの練習にも出なくなった真里に圭織が詰め寄っているのだが、
真里はそれをのらりくらりとかわすばかりだった。
「ねぇ、矢口最近ちょっとおかしいよ。なんか紗耶香のこと避けてるよね、紗耶香もああいう
性格だから口には出さないけど、時々寂しそうな顔してるんだよ。」
圭織の言葉が痛かったが、それでも今は紗耶香に会うことはできない。
そのうち時間が解決してくれるはずだから。
紗耶香は少しばかりの痛みを伴って私から離れていくだろう、そしてその痛みもそのうちにかすみのように消えていくはずだ。
そして、私もその頃には、もとの平凡ではあるが穏やかな日々の中で、紗耶香の横顔をぼんやりと眺めるのだろう。
「そのうちね。」
あいまいな返事を残して、真里は自分の教室へと戻っていった。
放課後になり、圭に見つからないようにこっそりと帰ろうと教室を出たとたん、
視界をさえぎるように圭織が現れた。
「今日、オフにしたから、屋上行こっか。」
隠そうとしているものの、圭織の声は非常に不機嫌な響きを含んでいた、振り返ると圭が仁王立ちしていた。
(逃げられないってことね・・・)
無言のまま屋上へ向かう3人を、奇妙な緊張感が支配していた。
その空気は真里に3人が出会った頃のことを思い出させる。
圭織は最近よく笑うようになった、それは真里が予想していたよりもずっと素敵な笑顔だ。
出会った頃から強い意思の光で輝いていた圭の瞳には、近頃柔らかさが加って一層綺麗になった。
それにひきかえ自分は・・・
1年の間にどんどん魅力的になっていく友人2人にはさまれていると、この間の事件後に感じた
どす黒い渦が胸の中に広がるのを感じて、本当に嫌気がした。
屋上に上がると秋の風が吹いていた。
涼やかで、ほんの少し冬の匂いを含んだ風はすべてを洗い流してくれそうな錯覚を起こさせた。
「どうしたいの?」
圭織の声は先程とは違い、一片の怒気も含んでいなかったが、心の深いところからの声だった。
真里はもう中途半端は許されないと腹をくくった。
「もう、嫌なんだよ。」
真里の短い一言は、3人にとって予想外のものだった、前を歩いていた圭が驚いた表情で
振り返った瞬間、その視線が自分の背中越しに漂ったのを真里は見逃さなかった。
(やっぱりか、付き合いが長いっていうのは嫌だね、分かりたくないことまで分かっちゃうよ)
「紗耶香が入ってくるまではダンスが楽しくて、純粋にダンスが楽しめたのに・・・
あいつと来たら、四六時中まとわりついて、前まで『女の子は嫌いだ』なんて言ってたのにすごい自分勝手!
むかつく!顔も見たくない!うっとしいけど我慢してきたんだよ、だけどもう疲れた、だから・・・」
そこまで一気にまくし立てたところで、誰かが階段を駆け下りる音がした。
と、同時に圭がそれを追いかけるようにして走っていく。
「紗耶香!」
真里の予想通り、音の主は紗耶香だった。
おそらく圭織たちが呼んでいたのだろう、真里の口から発せられる言葉が、これほど辛辣なものだとも知らずに。
「知ってたね。」
どういうつもりとは訊かれなかった、ただ、その時の圭織は全身で怒っていた。
「何を?」
圭織の怒りに火を注ぐように、薄ら笑いを浮かべながらとぼける。
いっそ嫌われてしまえばいい、そう思った。
刹那、圭織の右手が振り上げられる。
しかし、反射的に目を閉じた真里がいくら待っても圭織の右手が振り下ろされることはなかった。
ゆっくりと目を開けると、いつもの落ち着いた表情の圭織がいた。
「どうして?」
「今、あんたを殴って楽にさせるほど私は優しくないんだよ。」
それだけ言うと圭織も重い足音を残して去っていった。
歯車が狂っていく。
誰のせいでもなく、ただ自分のせいで、けれど、その時の私には、自分に何が足りなかったのかわからなかった。
(そろそろ別の場所を探さないとね)
ここ数日、屋上での一件以来、真理は独りで学院内の公園で昼食を取るようにしていた。
教室にいて、圭たちと共有する時間に耐えられそうになかったのだ。
しかし、10月とはいえ、その日は気団の影響か、肌寒く、指定のブレザーだけではやや厳しいものがあった。
こうして独りになることが今の自分にはふさわしいと思った。
時間がほしかったのだ、些細なきっかけで気づいてしまった自らの持つ醜い感情を抑えつけ、みなが自分を許してくれるまでの時間が。
「やっと、見つけましたよぉ。」
しかし、満面の笑みをたたえながら、突然現れた訪問者によって真里の思惑は打ち砕かれた。
「梨華ちゃん、何で?」
「いろんな人に矢口さんの目撃情報聞いて、やっとここまで来ました。」
真理の隣に腰をかけながら、梨華は持っていた缶コーヒーの1本を真理に手渡す。
「今日は苦情と警告にきました。」
意外な人物の登場に困惑している真理に、梨華は先ほどと変わらぬ笑顔で物騒なせりふを口にした。
「最近いちーちゃんに会いましたか?」
「・・・ううん。」
ばつが悪そうに答える真理を一瞥すると、大きなため息といっしょに梨華は続けた。
「ここ2日、いちーちゃん学校来てません、その代わり毎晩2時間くらい電話してくるんですよ。
それで、ひとみちゃんいじけちゃうし、私はテスト近いのに勉強できないし、大変なんですから。」
梨華の言葉を聞いても真理には返す言葉が何も見つからなかった。
ただ、うつむき、次の言葉を待つ真理を見ると、梨華は真理の言葉を促すように訊いた。
「何考えてるんですか?」
「・・・しょうがないんだよ。」
「だから、なにがですか?」
要領を得ない真理の返答に少し語気を強めて聞く梨華、その顔からはいつのまにか笑顔が消えていた。
「紗耶香は・・・紗耶香は今まで梨華ちゃんとか、少ししかホントの友達いなかっただろ、
だから、今は物珍しくて、矢口とかと仲良くしてるけど、ここで止まっちゃうとだめなんだよ。」
「だから、わざと自分から離れるようにした、と・・・それ本気ですか?」
ポツリポツリと話す真理の言葉をさえぎって、梨華が苛立ちを隠せない様子で真理の台詞を奪うと、少し躊躇したあとに、
真理はコクリとうなずいた。
しかし、それを見た梨華は自分の意が伝わってないと感じたのか、大きく頭を左右に振り、一気にまくし立てた。
「そうじゃなくてぇ!今言ったのが矢口さんのホントの気持ちなのかって聞いてるんですよ、そうじゃないんでしょ!」
今まで見たことがないような剣幕の梨華に圧倒されながらも、挑発的な口調に真理も負けずに言い返す。
「何で、梨華ちゃんにそんなことがわかるんだよ!」
「私もおんなじこと考えたことがあるからですよ!」
予想外の梨華の返答に真理は再び返す言葉を見失った。
「あのね、いちーちゃんと友達としてでも、それ以上としてでも付き合うとどうしても感じちゃうんですよ、
いちーちゃんは見た目もかっこいいけど、何よりなんか人をひきつけるものがあるから、
『自分なんかがいちーちゃんと仲良くしてていいのかな』って。」
再びいつもの包み込むような笑顔に戻ると、梨華は諭すように続けた。
「でも、私も矢口さんも知ってますよね、いちーちゃんが決して完璧じゃなってことを、
勉強できないし、要領悪いし、すぐむきになるし、すぐ泣くし、それに・・・」
「わかった、もういいよ。けどさ、やっぱり、矢口は紗耶香にふさわしくないよ、
背だってちっちゃいし、紗耶香と並んでても似合わないよ。」
「それって、これのこことですか?」
依然落ち込んだままの真理の目の前に差し出されたのは、掲示板に張られていたいつかの
切れ端模造紙だった。どういうわけか、びりびりに破かれ、それがその時のものだと判別するには一瞬の間が必要だった。
「それ、どうしたの?」
「大丈夫ですよ、いつも矢口さんがいちーちゃんと仲良くしてるから、いちーちゃんのファンが
やっかんでるだけですよ。それに、ちゃんと仇は取っときましたから。」
「仇って?」
恐る恐る聞く真理の質問に、梨華は満面の笑顔を浮かべるだけで答えない。
「ひとみちゃんてかわいいんですよ、見た目とかだけじゃなくて、性格とかも、年下なのにがんばって背伸びしようとしてるところとかも、
だから、もし自分より魅力的な人が現れたらって考えると、すごく不安です。
けど、結局今は私はひとみちゃんが好きだから、しょうがないんですよね。
あっ、これひとみちゃんに内緒ですよ、まだ今のところ私がイニシアチブ握っときたいんで。」
「・・・ごめん、何が言いたいの?」
突然始まった梨華ののろけ話に痺れを切らして、真理が訊く。
「私はいちーちゃんも矢口さんも好きです、だから、つまんないことしないでください。
とりあえずでも、今だけかもしれないけど、わがままに幸せ追っかけてください。」
「つまんないって・・・」
「だって、そうでしょ、せっかくの楽しい感情を劣等感で抑えるなんて、つまんないでしょ?」
強い、そう思った。
どうして、以前の紗耶香があれほど梨華のことを慕っていたのかが理解できた。
自分の気持ちとまっすぐに向かい合い、そして、そこから前に進める強さ、やさしい笑顔や、人当たりのよさに隠れがちだが、
これこそが梨華の持つ魅力だとそのとき思い知った。
「ねぇ、梨華ちゃん、私まだ間に合うかな。」
「きっと大丈夫ですよ、今日は昼休みに屋上で待ってるようにいちーちゃんに言っときましたから。」
それと、行動力もかな。
真理は自分の発見にもう1つ付け加えると、時計を見る。昼休みは残り10分。
スカートについた落ち葉や砂を払いながら立ち上がる。
「あっ、矢口さん、2回目はなしですよ。次もし敵前逃亡なんかしたら、銃殺刑ですから。」
「了解!」
小走りに立ち去りながら元気よく答えたものの、先ほどの梨華が『仇は取っときました』
と言った時の笑顔を思い出すと背筋に冷たいものが走った。
一人残された梨華は携帯を取り出すと、もう1つの問題解決をはじめた。
「あっ、もしもし私、うん今学校。
そうそう、うん。
あっ、多分大丈夫、今晩からもうないと思うよ。
うん、だから、そんな事言わないでうちおいでよ、うん、じゃあ7時ね。
ううん、それだけ、・・・だめだよ、今周りに人いるから聞こえちゃうよ。
クスッ、私もだよ、じゃあ今晩ね、バイバイ。」
顔を上げるともう真理の姿はなかった。
わずかに残っていたコーヒーを飲み干すと、梨華はこぶしを握り、小さなガッツポーズをした。
屋上に着くと午後の授業が始まる5分前だった。
彼女はまだいるだろうか、一瞬不安になるが、扉を開く手に迷いはなかった。
「紗耶香・・・」
居た。
屋上の手すりに肘をつき、顔を覆いながら肩を震わせている紗耶香が。
近づきながらもう一度声をかけるが、紗耶香は気づかない。
彼女の息遣いが聞こえるほど近づいてみて、その理由がわかった。
泣いていた。声を押し殺して、体全体を震わせながら。
すぐに行って支えてやらなければ壊れてしまいそうだった。
けれど何かが真理を引きとめる、それは、先ほど梨華との会話の中で別れを告げたはずの重く、暗い感情ではなく、罪悪感だった。
しかし、その気持ちを乗り越えるように、真理は一歩ずつ紗耶香に近づくと、
後ろから紗耶香の腰に手をまわし、背中に顔を押し当てた。
「紗耶香、ごめんね。ずいぶん待たせたね。」
「やぐっつぁん・・・来てくれた・・・」
「ごめんね、いっぱい嫌な思いさせたね。ごめんね、ずるいことばっかりしたね。」
真理がそこまで言って、すっと紗耶香から離れると同時に、紗耶香も真理のほうへ向き直ると嗚咽しながら、懸命に話し始めた。
「やぐっつぁん・・・、何であやまんの?
・・・謝るのは私でしょ、私がやぐっつぁんの嫌がる事したから、
ねぇ、もうやぐっつぁんの嫌がる事しないから・・・だから、もっと・・・ごめんなさい、お願いだから嫌いにならないでください。」
そこまで言うと、紗耶香は再び声にならない悲しみを吐きながら、真理の足元にひざまづき、すがりついた。
震える紗耶香を見下ろしながら、真理はこみ上げてくるものをこらえきれなかった。
「違うの、ほんとにだめなのは私、意気地がなくて、勇気が足りなくて・・・
自分ばっかりかわいくて、紗耶香が傷つくのわかってて、いっぱい言い訳して、ごまかして。
でも、もうそういうの止める、もう迷わない。今なら紗耶香の全部受け止められると思う。」
首筋に感じた自分のものではない涙に、はっとして紗耶香が顔を上げた。
「ねぇ、紗耶香、私まだ間に合ったかな?」
ブレザーの袖で顔をぬぐいながら紗耶香は立ち上がると、真理をしっかりと抱きしめながら涙声で、それでもはっきりと言った。
「私はやぐっつぁんに嫌われても、それでもずっとやぐっつぁんが好きです。」
「でも、矢口は紗耶香が思ってるような人じゃないかもしれないよ。」
「どんなやぐっつぁんでも好きです。」
「それにちっちゃいから紗耶香と並んだら変だよ。」
「そんなの周りが気にすることで、私たちの問題じゃないよ。」
「それに、それに・・・」
言いかける真理の口に紗耶香が人差し指を当てる。
「私の帰る場所は、いつもやぐっつぁんです。」
それを聞いた真理の瞳からは、先ほどとは違う、安堵の涙がとめどなく流れた。
「紗耶香。」
愛おしさをこめて名前を呼ぶと、真理は少しだけ背伸びをしながら、泣きはらした眼を閉じた。
「初めてのキスが涙の味って言うのも縁起が悪いね。」
午後の始業を告げるチャイムは、とっくの昔に鳴り終わっていた。
高く、よく澄んだ空の下ですっかり落ち着きを取り戻した2人は、誰に見せつけるでもなく
自然と手をつなぎ、屋上の鉄柵に寄りかかりながら遠くに見えるビル郡を眺めていた。
「じゃあ、もう1回しとく?」
言うと同時に少し背伸びをしながら真理が眼を閉じた・・・
「って、なに舌入れてんだよ!!」
「そんなぁ、だってやぐっつぁんさっき全部受け止めるって言ったじゃんかよぉ」
真理に張り倒されながら紗耶香が不満を漏らす。
「心と体は別!
まったく油断もすきもありゃしない。」
そう言うと真理は紗耶香をおいて立ち去ろうとする。
「ちょっと、やぐっつぁん、どこ行くの?」
「授業!紗耶香もテスト近いんだから、ちゃんと出とけよ、馬鹿なんだから!
それから、今日からカテキョ再開するんだから、ノートはちゃんと取るように。」
振り向いた真理の笑顔は紗耶香の大好きなはじけそうな笑顔だった。
「やぐっつぁん、大好きだよ!」
「バカッ!」
耳まで真っ赤にしながら、真理はそれだけ言うと教室に向かった。
(ずいぶんと寄り道しちゃったな)
たくさん傷ついて、たくさん傷つけてしまった。
だけど、後悔はなかった。
今、とても幸せだから、そして、それは彼女も同じだろう。
独りよがりかもしれない、エゴかもしれない。
だけど、もう迷わない、気持ちは移ろうものかもしれない、だけど、手にいれた信じる気持ちは決して色あせないから。
〜キスまでの距離〜
「寒くない?」
11月も半ばになり、フローリングの床は正直辛い、カーペットを買うことを前に提案したが、
「今、お金ないから。」という、非常に簡潔な回答で却下されてしまった。
「はい。」
そう言って、幸せそうな笑顔でピンクの毛布を差し出す梨華、かわいい。
1つ年上の彼女、しかも2人の間には高校生と中学生という、目に見えないが、大きな壁がある。
それでも私は率直に彼女をかわいい人だと思う、話し方、しぐさ、彼女の持つふわりとした空気、
見ているだけでいい気持ちになれるのに、それらが自分のものだと思うと幸せで息が詰まりそうなほどだ。
「ねえ、今日はどうするの?」
土曜日の夜、こうして勉強会が終了したあとに決まって彼女は訊く、と言っても私の答えはもう決まっている。
無意識の上目遣い、口元に浮かべた期待を表す笑み。天然の甘え上手、
そんな彼女が望むことをどうして私が断ることができるだろうか。
それに、私自身もそれを望んでいるのだし
「うん、泊まるよ。」
2学期が始まると、梨華との勉強会はこうして夜にすることが多かった。
もちろん真希も一緒だが、土曜日や祝日の前の夜はひとみがそのまま泊まるのを知っているので、
いろいろと理由をつけては気を使って来ないことが多かったのだが、
「ねえ、今日真希ちゃんは?」
「・・・デート・・・みたいな感じ・・・」
なんと説明したらいいのか分からず、ひとみはブツブツと言葉を切りながら、歯切れ悪く応えた。
学校見学を兼ねて、ひとみと真希が朝高の文化祭に行った時のこと、ひょんな事でひとみは真希とはぐれてしまったのだが、
そのあと無事再開した真希は別人になっていた。
それまでも、一応朝高に進学を希望していた真希だったが、その日から、朝高一本、朝高命の超受験生になってしまった。
理由はもちろん、アレである。
大学生だと思う、というわずかな手がかりを頼りに、真希は勉強の合間に先日ついに彼女を突き止め、
最近は紗耶香や真理といったつてを頼って、ストーカーのように彼女につきまっとているらしい。
(まったく、ごっちんは単純というか、惚れっぽいというか)
「・・・ゃん、ひとみちゃん!」
「え?ごめんなに?」
珍しく梨華といっしょにいるのに思考が飛んでいた。
何度も呼んだのだろう、梨華は頬を膨らませ「怒っています」をアピールしていた。
「ごめんごめん、でなに?」
「お風呂、入ったらって言ったの。」
そう言って、ひとみ用のバスタオルと部屋着を次々と梨華が投げてくる、そして、それをすべて造作なくキャッチするひとみ。
「うゎ、すごいね。」
1つくらい顔にぶつけてやろうと思って投げていた梨華だが、
予想に反してひとみがすべてキャッチしたので、怒っていたのも忘れて、小さく拍手までしている。
猫の目のようにコロコロと表情を変える梨華、そんなところも好きだな、と思いつつ、ひとみはある思いを胸に一人風呂場に向かった。
その日の放課後、梨華の家に向かう前にひとみはボンにいた。
呼び出したのは真希、理由は予想通り最近のお気に入りの話だった。
「ねぇ、好きな食べ物は何かな?」
「今日、ここに来ると思う?」
などなど、返事の仕様がない質問を延々と続ける真希、しかし、ここで「分からないよ。」と、
応えようものなら、真希の友情論を聞かされる事になるので、それは言えない。
2杯目のコーヒーをすすりながら、真希のエンドレストークにひとみが閉口していると、
助け舟とばかりにサークルを終えた紗耶香たちが賑やかにやって来た。
(何で、こんな話になったんだろう?)
紗耶香達がやってきて半時間が経った頃、当事者のひとみを無視して、
真希とサークルの面々で、喧喧諤諤(けんけんがくがく)の議論が交わされていた。
トピックはずばり『石川梨華は誘い受けか否か』
ことの発端は紗耶香の何気ない質問だった。
「で、実際のところよっすぃは梨華ちゃんとどこまでいってるの?」
「こら、紗耶香聞き方がはしたないよ、で、どうなのよっすぃ?」
諌めつつも、興味津々の真理、みんなこの手の話題には目がないお年頃なのだ。
「どこまでって、別にそんな・・・」
もじもじと、恋する乙女のように恥らうひとみ、その様子を滑稽と思うなかれ、さばさばして、
気が強く、男らしさすら感じさせることはあっても、やはりそこは女子中学生なのだ。
「よし、わかった、言いにくいんだったら、質問に首を振って答えてみよう。」
「うん、そうだね、それだったらよっすぃも応えやすいね。」
何がわかったのか、圭織と圭の年長コンビがそう宣言すると、ひとみはもう逃げ出せない空気が出来上がったことを悟った。
「じゃあ、いくよ、手は握った?」
最初は極軽く、圭がひとみに訊くと、ひとみはコクリと首を縦に振った。
「まあ、これは当然っちゃ、当然だよね。」
「じゃあ、次、キスは?」
「え、いきなりそこまでいくの?」
屈託なく質問する真希に、真理が驚いて訊き返すが、ひとみを囲む視線は好奇一色だった。
応えようかどうか、迷いつつも、ひとみがおずおずと首を縦に振り、そのまま、下を向くと、
「おお〜」とか、なんとかいっせいに歓声が上がる。
「う〜ん、なんだかんだいって夏休み前からの付き合いだもんね。」
「アタシはちょっと複雑かなぁ。」
「なに言ってんの、ごっちんはいまやあの人に夢中でしょ。」
顔を真っ赤にしてうつむくひとみをよそに、盛り上がる面々、
そして、せっかくの盛り上がりに終止符を打ったのは亜依と希美の最年少コンビだった。
「「じゃあ、せっくすは?」」
「「・・・あほー!!」」
場の空気を一瞬にして変えるお子様コンビに怖いものはない、覚えたての知識をひけらかしたい年頃でもある。
「痛いのれす・・・」
「・・・やぐっさん本気やったもんな。」
圭織に説教を、真理にげんこつをもらった2人がテーブルに戻ると、話題は相変わらず、ひとみの話だったが、少し様子が違っていた。
ひとみと圭・紗耶香が言い争っているのだ。
「だから、よっすぃは梨華ちゃんにいいようにされてるのよ。」
「そんなことないですよ。」
「だって、そうでしょ、キスだって梨華ちゃんが許可するか、梨華ちゃんの方からする以外はしたことないってことは、
キスしてるんじゃなくて、キスさせてもらってるんだよ。」
「う〜ん、そうだね、梨華ちゃんてのんびりしてるようで、頭いいし、よっすぃ上手くコントロールされてるっぽいね。」
なんとなく年下扱いされてる気はしていたが、梨華がそんな計算高い女だとはひとみは信じることができなかった。
どちらかと言えば、自分がはかなげで頼りない梨華をリードして付き合ってると思っていたからだ。
「ああ、それって誘い受けってやつね。」
黙って話の流れを探っていた圭織が、口を開いた。
「さそいうけってなんれすか?」
「あっ、ごめん矢口、そこの2人あっちに連れて行って。」
”大人”の話にはまだ早いと判断された2人は、不満たらたらで真理に引きずられていく。
ちっちゃい3人がいなくなると、圭織は続けた。
「つまり、よっすぃはなんだかんだ言いながら、梨華ちゃんに上手いこと扱われてるってことよ。
キスだって、自分からしてる気になってても、結局自分がしたいときじゃなくて、梨華ちゃんがしたい時だけしてるんじゃない?」
言われてみれば、その通り、よく考えると自分から梨華にキスをしたことはなかった。
「まあ、よっすぃのトコはうちらみたいに対等の関係じゃなくて、よっすぃが梨華ちゃんの手の上で飼われてるみたいなもんだね。」
お子様2人を置いて戻ってきた真理の肩を抱きながら、紗耶香が少し小馬鹿にしたように言う、
が、当然真理にその手をつねり上げられる。
「誰と、誰が対等だって?矢口は今すぐにでも別れたっていいんだよ。」
「そんなぁ、やぐっつぁん、あの時屋上で交わした2人の愛は偽物なのぉ?」
「忘れた。」
すがる紗耶香、余裕の真理。
まあ、この2人に比べたら、対等かな、と思いつつも、ひとみはある決意を胸にボンを後にした。
「あがったよ、次どうぞ」
回想にふけりつつも、シャワーを済ますとまだ濡れたままの髪を乾かしながら梨華に声をかけた。
が、返事がない。
おかしいなと思いながら、そばによってみると、梨華は勉強用のちゃぶ台に突っ伏したまま、小さな寝息をたてていた。
(かわいいなぁ)
ひとみは梨華の横に座ると、思わずその寝顔に見とれた。
長いまつげ、少し色づいた頬、艶を含んだ唇。梨華の顔にかかった髪をそっとかき上げ、
その顔が良く見えるようにして、顔を近づける。
息がかかるほど顔を近づけると梨華の匂いがした。
(ほっぺたならいいよね)
考えてみると自分からする初めてのキス、胸が早鐘を打ったように高鳴る。
気が付くとじわりと手に汗を握っていた。
「・・・う〜ん。」
寝言だろうか、小さな声をあげて梨華が反対側を向いてしまう。
心臓が止まるかと思った。
(そうだよね、寝てる時になんか反則だよね)
ひとみは思い直すと、さっきの毛布をかけてやり、もう一度寝顔をみようと、梨華が向いたほうに回り込む。
と、今度は本当に心臓が止まった。
「な、梨華ちゃんおきてたの?!」
そっと覗き込むと、梨華は大きな目をぱちりとしっかり開けて、ひとみを睨んでいた。
「意気地なし・・・」
ひとみを一瞥すると、梨華は大きな足音をさせて、風呂場に行ってしまった。
(何がなんだかわかんないよぉ)
情けないんだか、悲しいんだか、ひとみがパニックになっていると
何かを思い出したように梨華がくるりと振り返るとひとみに向かって一直線に戻ってきた。
ひとみの目の前まで来ると、あきれたようにため息をつき、梨華は意を決したように右手を大きく振り上げた。
(何で?何でこのうえわたし叩かれるの?)
泣きそうになりながらも、ひとみはきゅっと目をつむったが、ひとみを襲ったのは頬への痛みではなく、
今まで何度となく感じた幸せな感触だった。
「なんてね」
目を開けると、唇を離した梨華がいたずらっ子の微笑みを浮かべていた。
「今日、ひとみちゃん来た時から、キスしたいオーラ出てたから、チャンスあげたのになぁ。まぁ、でもいっか。」
心底楽しそうな笑顔と鼻歌を残しながら、梨華は風呂場に去っていった。
(魔性の女だ・・・)
梨華が最後に見せた微笑は、その夜のひとみにはとても妖艶なものに感じられた。
(だめだ、やっぱりかなわないみたいッス)
ひとみ15歳。
幸せで緩む頬をおさえながらも、受験の他にもう1つ、小さな目標を見つけた冬の始まりだった。
〜あの場所へ、再び〜
ラジカセから流れる軽快な音楽と、コンクリートを鳴らす軽快なスッテプが、ガラスのように澄んだ空気を震わせる。
季節は冬の始まりを過ぎ、吐く息も白くなる完全な冬だった。
「あ〜、限界!今日はここまで。」
最初に根を上げたのは以外にも圭織だった。
吹きさらしの屋上での練習は、北国育ちの彼女にも堪えるようだ。
「賛成、今日はもう無理だね。」
圭織が言い終わるが早いか、圭も帰り支度を始める。
物足りなさそうにしているのは、元気者コンビだけだった。
「ちょっと、カヲリも圭ちゃんも、これからもっと寒くなるんだよ、去年はこれくらい平気だったじゃない。」
「そうですよ、体動かしてれば暖かくなりますよ。」
「そんだけ着込んでるあんたらに言われたくないよ、まさか今日こんなに寒くなると思わなかったんだから。
とにかく、今日はここまで、続きは明日。いいね。」
ふくれっ面の2人に帰り支度をさせる圭織を、ふいに聞き慣れない声が呼びとめた。
「飯田さんですね。」
「はい、そうですが・・・。」
文化祭の華やかさの陰に隠れてしまいがちだが、この時期、朝高にもいわゆる「引き継ぎ」というものはある。
卒業のため、引退する3年生に代わり、下の学年が業務を受け継ぐあれである。
しかし、自由すぎる校風は逆に生徒たちに自治への関心を薄れさせ、朝高において生徒会は非常に陰が薄かった。
選挙制度をとれば少しは生徒の注目を集められそうなものだが、どういうわけか朝高では、代々指名制度をとってきた。
すなわち、前回の生徒会が次の会長を指名、決定し、任命された新会長によって人事が行われるのである。
もちろん拒否権もあるが、たいていの生徒は指名を受けてきた。
生徒会長といってもたいした仕事があるわけはなく、文化祭や他校との交流会など、
主だったイベントに際しては実行委員会が組織されるので、会長といっても肩書きだけと思われがちだ。
しかし、生徒会長をやっていたということは、進学のときに評価されることはあってもマイナスになることは無い。
そうした理由から引継ぎは毎年意外なほどスムーズに行われてきた。
そして、今年も例年通り、人知れず引継ぎは行われた。
「・・・以上の結果、生徒会は満場一致で次期会長として、あなたを指名します。」
「謹んで、お受けします。」
先日行われた文化祭の熱気覚めやらぬ生徒会室では、少々芝居がかったやり取りが行われていた。
しかし、その場で一番冷めていたのは、たった今任命書を受け取った少女自身だった。
別に生徒会長になんかなりたくなかった。
10月に入った頃、目の前にいる”前”会長に呼ばれて初めて生徒会室を訪れた時、
何の用で呼ばれたのか予測はついていた。
入学以来、成績の順位が上がったことは一度も無かった。常にトップだったからだ。
けれど、決して目立つ方ではなかった。昼休みはいつも1人で過ごし、クラブやサークルに参加する事もなかった。
かといって、決して運動が苦手なわけでもない。どちらかというと、なんでもそつなくこなせるほうだ。
しかし、他人の注目を集めるにはそうした数字で表すことができるデータだけでなくある種のオーラのようなものが必要だった。
そんなオーラをところかまわず放っている人間の代表が紗耶香である。
そして、そうしたオーラを自らの意思でコントロールできる人間もまた存在する。
集団の中で、できるだけ自分を消し、他人が自らに近寄りがたい雰囲気を作り出す。
それが安倍なつみという少女だった。
別に他人がわずらわしいというわけではないし、また、他人に対して萎縮しているわけでもない。
それでも、そうしなければならない理由があって、自らもそれを納得してきた。
だからこそ、今回、指名を受けてやってほしいと担任が言った時には、驚くよりも釈然としないものを感じた。
生徒会長になんかなれば、少なくとも今よりは目立ってしまう。
しかし、だからといってそれを拒否できるはずもなく、こうして完璧なポーカーフェイスで任命書とやらをうやうやしく受け取っているのだ。
(まったく、何考えてるんだろ)
「・・・の学校側からの依頼も併せて引き継いでいただきます。」
心の中の愚痴がうるさくて、対面の前会長の言葉をつい聞き逃していた。
一言詫びてもう1度説明してもらったのだが、その内容があまりに信じがたい内容で、
結局もう1度前会長に同じ説明をしてもらうことになった。
先日の文化祭は大盛況のうちに幕を閉じた。
初等部から中等部、高等部、短大、大学更には大学院まで参加して合同で行われる文化祭は毎年多くの来場者を迎え、
ちょっとした地域のイベントにもなっているのだが問題はその中で起こった。
本当は問題というほどのことではないのだが、”いいきっかけ”をつくってしまったのだ。
講堂に特設されたステージは昼休みに入り、それまで演奏していた吹奏楽部が引き上げたことで無人になっていた。
しかし、観客は引き上げるどころか増える一方。
彼らのお目当ては昼休みに学校公認のクラブが休憩に入る時間を利用して行われるエキシビジョンプログラム。
配布されるパンフレットにも載っていないが、宣伝は口コミだけで十分だった。
エキシビジョンに参加するのは、学校非公認のサークル。
非公認といっても参加するバンドやコーラスグループは普段は街のライブハウスで金を取って演奏しているほどのレベル、
決してお遊びではない。
そんな中に圭織がリーダーを務めるダンスサークルもトリとして参加した。
ステージは予想を大きく超えて盛り上がり、アンコールに応えているうちに結局ステージは30分以上も延長してしまった。
それがいけなかった。
エキシビジョンが長引けばそれだけ午後のプログラムが遅れる。
しかも、エキシビジョンを見終わった観客の中には遅めの昼食を取るために午後のプログラムそっちのけで帰ってしまう者もいた。
日ごろから、学校非公認のサークル活動に批判的な古参教師達にとってみれば面白くないことこの上ない。
そこで、今回の処置にいたった。
つまり、学校側の言い分はこうだ。
『文化祭という集団活動において、全体の進行を遅らせるという身勝手な行動をとるようなサークルに対しては、
今後学校施設の使用を認められない』
しかし、認められない、と言いつつも学校側としてはそれを直接勧告することはできない。
なぜなら、施設自体は学校側の物だが、サークルも含めた生徒の活動全般は生徒会の管轄ということになっているだからだ。
つまり、施設に立ち入り禁止の札を立てることはできても、それぞれのサークルに活動中止を言い渡すことはできないのである。
学校側としても立ち入り禁止にした場所で生徒を見つけ、謹慎等にするような大事は避けたい。
そこで、今回生徒会に学校側から、エキシビジョンに参加したサークルに対して、
活動中止勧告をするようにと正式に依頼があったのだ。
生徒会の活動中止勧告は、実際には勧告ではなく、命令に相当する。
勧告を受けたクラブ、サークルはその勧告に必ず従わなくてはならない。
厳しいようだが、朝高が他の高校と比べてきわめて自由な校風を維持しているのも、
こうした学校側と生徒会の管轄がしっかりと守られ、時には厳しい規律が存在するからこそなのだ。
しかし、頭では理解できても、それが必ずしもできる事かというと、話は違ってくる。
引継ぎも終わった生徒会室でなつみは独り頭を抱えていた。
「・・・と、言うわけです。」
「そんなの納得できるわけないじゃん!」
突然の大声に帰り支度をしていた3人が振り返る。
「(なっち?)」
「(圭ちゃん知り合い?)」
「(安倍なつみっていってね、去年ちょっと・・・。)」
「(安倍なつみって、あの毎回成績一番の人ですか?!)」
「(あれ?紗耶香、あんた成績発表なんか見るの?全然関係ない世界でしょ?)」
笑う圭と真里、むくれる紗耶香。
物陰でいたって平和な3人に対して、圭織の口調は徐々に熱を帯びてきた。
「そんな、突然の活動中止勧告なんか受け入れられるはずないでしょ!」
「だから、最初に説明したはずです、これは勧告ではなくて実質命令だと、それに、勧告理由も正当だと思いますけど。」
「そんな!何をもって正当な理由なのよ、ステージの延長なんかよくあることでしょ!」
「それが正式に認定されていた活動なら問題にはならなかったけど、あなた達はあくまでエキシビジョン、
非公認の活動が、公認の活動を妨害したのだから問題です。」
「それじゃ、他のサークルは!」
「ええ、当然勧告は行いました。ですが他の音楽系サークルは活動の拠点が校外なので、
文化祭のエキシビジョンなど、イベントにだけは参加することを条件に勧告を受け入れています。
それに、前々から生徒の屋上使用に関しては問題視されていたのは知っていたはずです。
なんでも屋上での喫煙疑惑もあるそうですし。」
「それは・・・」
今はもうありませんとも言えない。
新生徒会長と名乗る目の前の少女が言うことはいちいちもっともで、自分のほうに理がないことは圭織自信も分かっている、
しかし、理解することと納得することはちがう。
「とにかく、勧告は行いました、1週間後に今回の勧告に関する報告会があるので、
それまでに片付け等を済まし、勧告受理の旨を伝えに来てください。」
立ち去るなつみの背中に、圭織は言い返す言葉を見つけられずにいた。
しかし、憂鬱なのは圭織だけではなかった。
むしろ、勧告を行ったなつみの方が、自分の言葉に眩暈がするほどの嫌気を感じていた。
重たい足を引きずり、階段を下りると、今一番会いたくて、会いたくない人が待っていた。
踊り場の壁にもたれ、腕を組んでいる姿は間違いなく自分を待っていたのだろう。
「どうやった?」
「言ってきたよ。」
「そうやなくて、圭織たち何も言ってなかったか?」
「怒ってたよ、だから1週間だけ猶予あげてきた。」
「1週間なぁ、ふ〜ん。」
中澤裕子。
朝比奈学院高等部教師、担当は数学。
現在は、なつみの担任でもある。
なつみに生徒会長になることを勧めた、いや、強いた張本人だ。
そして、2人は教師と生徒以上の関係でもあった。
なつみが自分が目立つことを極度に嫌う原因もこのあたりにある。
自分が注目されることは、裕子との関係が表沙汰になる危険性を高めるからだ。
だからこそ、裕子が生徒会長を受けてほしいと言った時は自分の耳を疑った。
短い付き合いではないのだから、お互いの考えはそれなり以上に理解しあっていると信じていたのに、
ただの独りよがりだったのだろうか、そんな疑念すら感じた。
そのうえ、自分がこうして勧告を行わなくてはならなくなった経緯に、裕子が一枚かんでいるという話も聞いた。
自分を生徒会長にして、彼女はいったい自分に何をさせたいのだろうか。
(わからない、こんな時もっと言葉にしてくれる人ならどんなに楽か)
なつみは言葉にならない願いを飲み込む。
昔から物分りのいい子だといわれ、大人からかわいがられてきた。
それは今も変わらないと自分でも思う。
相手の気に入らないところ、嫌なところ、それもすべて含めて好き。
すべてを受け止めよう、それが本当の愛の形ではないのだろうか、なつみはそう信じて疑わない。
「ところで、今日一緒に帰るって言ってたけど、もう帰れるの?」
「悪い、さっきみっちゃんと呑みに行くて言うてもうたから。」
悪いといいつつも、頬を緩ませながら両手を合わす裕子。
「・・・うん、じゃあしょうがないね。」
いつものやり取り。
裕子がいかに理不尽なことをしても、何を言ってもなつみは決して彼女を責めるようなことはしない。
優しさなのか、おおらかさなのか、受け入れるという事に関して、なつみは慣れ過ぎていた。
しかし、辛いことに耐えることはできても、分からないということへの不安はぬぐえるものではない。
取り残された廊下で、なつみは不安や悲しみに似た寂しさという感情が広がっていくのを独り感じていた。
翌日の昼休み、屋上の空気は、その日の灰色の空をそのまま映したかのようにひどく冷たく、息が詰まりそうだった。
「弱ったね・・・」
圭織の話が終わっても、誰も何も言い出せない。
沈黙を破った真里でさえ、うつむいて感想を言うのが精一杯だった。
「・・・嫌だよ、わたし、解散なんて嫌だよ。」
自分の膝に顔をうずめる紗耶香の頭を真里はただ撫でてやることしかできない。
皆、紗耶香のように泣いてしまうことができれば、少しは楽になれたかもしれない。
しかし、紗耶香よりも1年以上長くサークルに関わってきた思いがそれを許さない。
辛くてもあがけるだけあがこう、3人の腹は決まっていた。
けれど、そんな3人の間にも微妙な温度差があった。
切れてしまいそうな思いを、怒りでつなぎとめようとする2人の横で、圭は思いをめぐらせていた。
同じ頃、時間に追われていたのは圭織たちばかりではない。
なつみもまた新生徒会の役員を早々に決めてしまわなければならない。
(どうしよっかな〜、もうちょっと人付き合いしとけばよかったな〜)
運動総部長などは、クラブの部長をやっている人間の中から適当にピックアップすればそれでいいのだが、
副会長や会計を頼めそうな人物はいくら思いをめぐらせても、思いつかない。
これがこの2年弱の間に自分が築いてきた交友関係の結果かと思うと、ため息をつかずにいられない。
うんざりした気持ちで廊下に出ると、目の前に昨日と同じように腕を組んで立っている人影。
「待ってるんなら、入って来ればよかったのに。」
「なっちの独り言が聞けるかなと思って。何しとったん?」
もしこの微笑みに音をつけられるのなら、間違いなく「ふわり」だろう。
かわいいでも、可憐でもなく、素敵な笑顔。
なつみはいつもそれをずるいと思う、そんな風に微笑まれたら、たとえあなたが悪魔でも、きっと私はあなたを愛してしまうから。
「うん、生徒会の人事考えてた。けど、なかなか上手くいかなくて。」
「圭織たちに頼んでみたら、あの子らサークル無くなったら暇やろし。」
「そんな、頼めるわけないっしょ!なっち絶対嫌われてるのに。」
「それもそうやな、困ったな。」
困ったと言いながらも、おかしそうに笑う裕子を見ながら、なつみはこの世の不公平とつかの間の幸せを感じていた。
次の日の昼休みも、なつみは1人生徒会室にいた。
別にここに来たからといって、悩み事が減るわけではないのだが、一人になるには最適な場所だった。
意にそぐわない生徒会長としての初仕事、生徒会の人事、そして、何を考えているのか分からない恋人のこと。
こうして机とにらめっこをしていても解決しない問題ばかりだが、動き回ってもどうなるものでもない。
(どうしたもんだろ)
人は自分の手に余る事態に直面すると、総じて客観的になってしまうものである。
しかし、また、こういう時、きっかけは意外と突然やってくるものである。
誰も来るはずがない生徒会室にノックの音が響く。
おかしいなと思う間もなく、訪問者はドアを乱暴に開けて入ってきた。
「お話があります!」
「・・・まあ、座ってください。」
訪問者の顔を見て、用件の内容が瞬時に分かるということも珍しい。
「2人だけですか?」
勢いよく入ってきたものの、初めての生徒会室に戸惑う圭織と真里に茶を淹れてやりながらなつみが尋ねた。
が、興奮しているせいか、はたまた敵意からか2人は応えるそぶりすら見せない。
「勧告を撤回してください。」
出された茶に手をつけることもなく、これ以上ないくらい真剣なまなざしで訴える2人になんと言えばよいのか、
なつみには答のヒントすら見つけられそうになかった。
きっと何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう、それならばと思った。
「正直に言います。」
なつみはあまり気が進まなかったが、一呼吸おいて続けた。
「今回の勧告自体は、私自身も過剰な処置だと考えています。」
「じゃあ!」
なつみの意見に真里が目を輝かせた、がそれも一瞬。
「しかし、これは学校側からの依頼のもとでの勧告です、学校側からの依頼となれば、『断る明確な理由』がない限り、
生徒会の立場上、拒否はできません。
それに、もしこの依頼を断って、勧告をしなかったとしても、学校側が施設の使用禁止などの
より強硬な処置をとることは目に見えています。」
うつむく2人の後頭部を見つめながら、心底彼女らに同情し、同時に自分の言葉に吐き気がした。
しかし、なつみ自身この問題には、もうこれ以上関わりたくなかった。あの屋上に行くたびに、
楽しそうな彼女達を見るたびに、やりきれない気持ちになる。
「以上の理由から、あなた方のサークルは校内で活動することは今後不可能です。」
(・・・不可能って、何で自分達がやりたいことを・・・もうやだよ)
言葉に心が反論する。
胸が熱くて、涙が出そうだった。だけど、もう終わったことだ。
「・・・なんで、みんな・・・矢口達も、ステージ見に来てくれた人も、それに、安倍さんもサークル続けていいって思ってるのに・・・
おかしいよ!悪いことしてないのに、やりたいことやめなきゃならないなんて、おかしいよ!」
泣きじゃくる真里に胸ぐらをつかまれ、なつみは、ここにいない彼女に問い掛けていた。
過ぎ去ってしまった季節は二度と戻らないんだよね。
そして、私は今彼女達のかけがいのない季節を奪おうとしているなかな。
(ここに来たってしょうがないのにね)
1人なのにもったいないかなと思いつつも、エアコンのスイッチを入れる。
一応の引継ぎは済んだが、昨年の資料に目を通しておくために、放課後もまた生徒会室に来てしまった。
こうして、ここへ来るたびに、早く他の役員をなんとかしなければという気にはなるのだが、
正直なところ、それどころじゃなくなってきていることも同時に感じていた。
(お客さんの多い日だな)
本日2回目のノック。
裕子が迎えに来てくれたのかと思い、無意識に声が弾んでいた。
「どうぞ。」
「こんにちは、はじめまして、じゃないんだけど・・・覚えてるかな?」
予想に反してやってきた訪問者には、確かに見覚えがあった。
「あのサークルの人ですね。」
「う〜ん、やっぱ覚えてないか、それも当たってるんだけど、去年同じクラスだったんだよね。
保田圭、覚えてない?1回隣の席にもなってるんだよ。」
「・・・ああ」
正直覚えてはいなかったのだが、完全に忘れていたとあったは相手に失礼なので、
とりあえず思い出したふりをしてしまうあたりが彼女のらしさだ。
「で、やっぱりサークルに関することですか?」
「うん、あれがなくなると困る人間が多いんだ、私もその中の1人なんだけど。
何とかならないかな。」
「何とかしてあげたいとは思うけど・・・」
もうやめてほしかった。
これ以上、この問題にも、あの屋上にも関わりたくなかった。
(早く帰ってくれないかな)
どちらが沈黙に耐えつづけることができるか、そんな競争をしているかのように、なつみと圭の間に分厚い沈黙が横たわっていた。
「安倍さん、歌うまかったんだよね?」
突然の変化球になつみの心臓が高鳴る。
歌というありふれた単語は、なつみがしまいこんだ思い出を一気にリアルにする。
それは、時にはあたたかい、しかし、大抵は今のようになつみの胸を締め付ける古びた鎖でしかない。
彼女は何を知っているのだろう・・・
恐怖にも似た不安につぶされそうになる。
「何言ってるの?」
平静を装いながらも、声が上ずる。
「・・・やっぱり、あのことが関係あるんだね。
私もあの時誘われてたんだよ、一緒にやらないかって。
直接は話さなかったけど、安倍さん・・・なっちのことは聞いてたよ。」
ああ、思い出した・・・
そうか、目の前のこの少女が、彼女が言っていた幻の3人目だったのか
「違う!関係ない、何も関係ない!
知ったような口きかないでよ、あなた達も早く諦めてくれれば良いのに・・・
そうすれば・・・もうわたしをあそこへ近づけさせないで!
もうやめて・・・出てってよ!出て行きないさいよ・・・」
気が付くと自分でも驚くほどの大声で叫んでいた。
それは出口を探していた心の叫びだった。
「ごめんなさい。」出て行く時彼女はそう言ったかもしれない。
けれど、その時聞こえていたのは、そこにない彼女の声だけだった。
まだ6時を回ったばかりなのに、窓の外にはもう星が輝いていた。
ここ数日でだいぶ日が短くなった。
「ちょっとええかな。」
悪意がなかったとはいえ、人を傷つけてしまった。
はたから見れば些細な出来事だったかもしれない、けれど、
圭の責任感はそれを笑って済ませられるほど、弱くはない。
「なあて!」
「聞こえてますよ、なんですか?」
人気のない廊下で声をかけれて聞こえないはずがない、しかし、
返事をしたくない時と相手というのはいるもので、声の主はその両方を満たしていた。
「ひどいわ、何で無視するん。ウチと圭坊の仲やろ。」
朝高が誇るお気楽不良教師。
センチな気分の時に会いたくない人物ベスト3には確実に入るだろう。
こっちはあんたの恋人を泣かしてきたとこなんだよ。
吐き捨てそうになる言葉を喉元でかろうじて止めると、大きく息を吸った。
「で、何の用ですか?」
「ちょっと話しあんねん。」
(うわ、悪い顔)
なつみが愛してやまない笑顔も、裕子の正体を知る数少ない人物の1人、
圭にとっては悪魔の微笑みに他ならなかった。
裕子と別れ、校門を出る頃にはちょうどいい時間になってしまっていた。
(さて、やりますか)
裕子の話を聞き終って、やるべきこと、やらなくてはいけないことは決まった。
自分の考えがまったくの的外れではなかったことも分かった。
しかし、想像以上に根が深い真実は、やり場のない苛立ちと悲しみを投げかけた。
(それにしてもずるい女だね)
お気落、軽薄、それでいて憎めないやつ。
そんな裕子に対する評価に、”意外と一途”を付け加えてやろうか
圭はニヤニヤ笑いをかみ殺しながら、今日2つ目の戦場に向かった。
「あんたらしくないね。」
店にくるなり、用件をまくし立てた圭。
それを聞いているのか、いないのか、彩は面白くなさそうにグラスを拭いていた手を止め、
ボソリと言うと、また、グラス拭きに戻った。
予想通りの反応だった。
圭が知る彩という人物は、こういう人の古傷をいじるようなやり方が大嫌いだ。
しかし、こっちも「そうですね」と引き下がるわけにはいかない。
「らしくないって、どういうことですか?」
「自分のために、他人を傷つけるかもしれないような事するってこと。
あんたのやろうとしてること、かなりハイリスクだよ分かってる?」
「わたしのためだけじゃない!」
目を伏せ、手元のグラスをもてあそぶ。
たしかに自分のやろうとしていることは、間違っているかもしれない。
だけど、何かが後押しをするのだ。
「まあ、でも、圭ちゃんのことだから、何か考えがあってのことでしょ・・・
いいよ、知り合いあたっといてあげるよ。」
らしくないと言いながらも、圭とは短い付き合いではない。
圭の感じる何かを信じた彩は苦笑を残して、早速電話をかけにいってくれた。
1週間の期限も気がつけば残り2日になっていた。
ついこの間までなら、寒い寒いと言いながらも4人で過ごしたかけがえのない時間と場所。
失うなうことのなんと容易いことだろう。
(もう、みんな集まりもしなくなっちゃったか)
「寂しい場所になっちゃったね。」
「今はね・・・」
圭は先日ある人物を探してほしいと彩に頼んでいた。
ボンの近くには大きなライブハウスがあるせいで、元々そういった情報は入ってきやすい。
彼女を見つけるのに時間はかからなかった。
「それにしても、私が辞めてから1年でこんなことになってるなんてね。」
「ごめんね、今さらって気もしたんだけど。」
「いや、呼んでくれて感謝してるよ、やっぱなんかおっきな忘れ物してたんだよ。」
「ありがと、明日香。」
錆びついた屋上のドアが、待ち人が来たことを告げた。
「こんなところに呼び出して、何の用ですか?」
「会わしたい人がいてね。」
「・・・久しぶり。」
予想外の人物の登場になつみは言葉を失った。
屋上で、明日香が・・・
なつみの心が時をさかのぼる。
福田明日香は、地方から朝高に入学したなつみにとって最初の友達だった。
そして、最後の友達だった。
2人は不思議なほど気が合った。
2人は歌が好きだった。
そして、そのことが2人を引き裂いた。
持ち寄ったラジカセと譜面だけがそのサークルの備品だった。
誰もいないとはいえ、最初は正直恥ずかしかった。
けれど、そのうち屋上から2人で空を震わせる時間が、かけがえのないものになっていった。
そして、いつまでも続くと思っているものほど、終わりはあっけなくやってくる。
『プロになりたい』
明日香がそう言い出すのにそれほど時間はかからなかった。
「どうして・・・別に学校辞めることないじゃない!」
「・・・貫きたいんだよ、だから、そのためには中途半端じゃ駄目なんだ。
失敗したらいつでも学生に戻ればいい、そんな気持ちじゃ駄目なんだ。」
「私はいつまでも明日香とこうして歌ってるだけでよかったのに。」
「ごめん、でももう決めたんだ。」
裏切られたと思った。
分かり合えてると思っていたのに、お互いがお互いにとって必要で、大切な存在、そう信じていたのに、
「・・・嫌だ、絶対嫌だ!辞めないで、ずっと一緒にいてよ!」
気が付くと、明日香の胸ぐらをつかんで泣きじゃくっていた。
思えば、それが最後のわがままだった。
けれど、私の涙は何の力も持っていなくて、去り行く彼女に『頑張って』と言えなかった自分が、
とても嫌な人間だと思った。
剥き出しの感情を力いっぱいぶつけて、ずいぶん困らせてしまった。
だけど、今の私はもうあの時の私じゃない、今なら言える、『頑張ってね』と笑顔で。
「久しぶりだね、明日香、どうしたの?」
「困ってるって聞いてね。」
「・・・そっか、でもしょうがないんだよ、なっちも今は生徒会長になっちゃたから、
学校の言うこと聞かないとね。
それにしも、元気そうで良かったよ、歌、頑張ってね。」
完璧だった。
にっこりと笑い、頭の中で描いた通りの台詞が言えた。
しかし、返ってきたのは笑顔でも友情を確認しあう言葉でもなく、左頬への熱い衝撃。
「・・・なんで、明日香?」
「困ってるのはあんたでしょ、そんな寂しそうな目で頑張ってなんて言われても、全然嬉しくないんだよ。」
「そんな、私は明日香のことを本当に・・・」
「大丈夫。私はなっちが何を言っても嫌いになったりしない。だから、本当の声を聞かせて。」
どうして私の周りにはずるい人が多いのでしょう。
恋人は完璧な笑顔でいつも私を困らせます。
突然現れたかつてのクラスメートは私の弱点をこんなに短期間で見破ってしまいました。
そして、その”弱点”は私が一番ほしいものを、一番ほしいときにしかくれません。
「嘘つき・・・だったらどうしてなっちを独りにしたの、どうして、今まであってくれなかったの!」
泣きたくなかったのに
泣いて、わめいて、そして、失ってしまうなら、最初から諦めているほうが楽だと思っていたのに
「なっちのどこが独りなの?なっちが本当に独りだったら、今私はここにいないよ。
それに、会いたくてもあえなかったんだよ、最近だもん、こっちに帰ってきたの・・・
ごめん、いい訳だね。本当は自信がなかったんだ、大見得切って出てったからには、
それなりのもんになってないとね、と思ってたんだよ。
けど、たった1年であんなに素直だったなっちが、こんなにひねくれたこになってるなんてね。」
もう好きにしてください
わしわしと頭を撫でられながら、私はたくさんのものを思い出しました。
「それでは、今回の非公認サークルへの活動中止勧告に関する報告会を始めます。」
結局、報告会までに役員は決められなかったので、
教師達を前になつみは1人で報告を始めていた。
「・・・の勧告の結果、昨日勧告を行った全サークルから受理の報告を受けました。
この結果、今後校内において前出のサークルが活動を行うことはありません。」
勧告が滞りなく行われた経緯を報告すると、古参の教師達の中には拍手をする者すらいた。
しかし、なつみに対して、厳しい視線を送る者もいた。
明日香が去った後も、裕子のなつみに対する愛情は変わらなかった。
しかし、痛いときに痛いと言ってくれない、欲しい時に欲しいと言ってくれないなつみを何度ももどかしく思った。
察してやることはできる、けれどそれでは何にもならない。
望みを叶えてやることが大切なのではなく、望みを言い合える関係が大切なのだ。
だから、圭織たちをぶつけてみた。
奔放が制服を着て歩いているような彼女たちなら、なつみが諦めてしまい込んでしまったものを
もう1度引き出してくるのではないか、そう思っていたのだが・・・
どうやら、思惑は外れたばかりか、なつみの心はより一層冷たく、凍ってしまったのではないか。
淡々と報告を続けるなつみを見ながらそんな後悔の念にかられる一方で、
結果として人任せにしてしまったにもかかわらず、心の片隅で”残念”と思ってしまった自分が許せなかった。
「さて、それでは続きまして、新規登録したクラブについての報告を行います。」
会議も終わり、帰ろうとしていた教師たちの足を、なつみが止めた。
「ちょっと待ちなさい、安倍君、そんな話は聞いてないよ。」
「今聞いてください、重要議題です。」
迫力満点のなつみの笑顔に古参教師も渋々もう1度席についた。
「今回の勧告によって、活動中止となったサークルの責任者全員から、
新規クラブ登録の申し出を受けました。そして、生徒会は、その申し出をすべて受理、
今日付けで5つの新規クラブを設立したことをご報告します。
それに伴い、新規クラブのための緊急予算の編成および、施設の使用許可、
顧問の人事等、学校側としての対応をお願いします。」
とたんにざわつく会議室。
その中にあって、ただ1人、狼狽する教師達を尻目に机の下で拳を握り、喜ぶ金髪の不良数学教師。
(予想以上やんか!)
「安倍君!そんなこと、認められるわけないだろう、突然新規クラブなんて」
「制度上は問題ないはずです。クラブの設立は生徒会の承諾があれば可能です。」
「しかし、そんなクラブに学校側が予算や施設を用意すると思うのかね?」
ハゲ。分かりやすいあだ名の教師が、皮肉とわかる口調でなつみを睨みつける。
が、なつみは怯まない。
「ええ、本来ならこのような年度中の新規クラブの設立など認められないところですが、
今回は特別な事情がありましたから。」
言いながら、なつみはブルーのクリアファイルを取り出した。
「ここに、今回のサークルへの活動中止勧告から、クラブとしての登録までの経緯を”客観的に”まとめた資料があります。
資料の中には文化祭中に活動を妨害されたとされる、
クラブの関係者からの調書もありますが、一応報告しておきますと彼女達はみなおおむねサークルに対して好意的です。
もし、今回の新規クラブに対して学校側が何らかの”特別”扱いをしたと認められた場合、
この資料を年度末の学院総会議に提出、『学院総則第3条:生徒の文化活動に関する規約』に
照らし合わせ、問題として提起することになるでしょう。」
「そんな脅迫まがいのこと、許されると思っているのかね!」
ハゲは予想外の展開に目を白黒させながらも、かろうじてそう言ってのけた。
「脅迫?
それは、この資料の中にあることですか?聞けば、サークルに対して、
抗議文を提出したクラブの責任者の中には、顧問の教師に何か言われたとか、言われなかったとか・・・
たしか、先生は吹奏楽部の顧問もされてましたよね?」
うなだれる、古参教師陣。
勝負あり、復活したなつみにとって頭の固い古参教師など敵ではなかった。
気が付けば、雪の舞う季節。
世界中の人が愛に満たされるその夜、ボンで開かれたささやかなパーティーは色とりどりの喜びに包まれていた。
「それでは、ダンスサークル改め、舞踏部の明るい未来にかんぱーい!」
”部長”圭織の音頭で9つのグラスが小気味いい音をたてる。
「それにしても、舞踏部って名前はどうにかならなかったんですか?」
「いやぁ、カヲリも頑張ったんだけどそこは向こうも折れなかったんだよね。中年の意地ってやつ?」
「まあ名前はどうあれこれで念願の部だもんね、良かったね矢口。」
「くう〜、泣かせるようなこと言うなよ圭ちゃん。」
豪腕なつみと高等部きっての人気者集団の根回しが功を奏し、サークルは申請からわずか
1ヶ月という学院始まって以来の新記録で、何とか年内に部として再結成することができ、
今日はそのお祝いもかねてのパーティーである。
「部になったいうことは再来年ウチらが入学したときもちゃんとあるいうことやんな?」
「そうれす、ののがしっかりいいらさん達の伝統を引き継ぐのれす!」
彩を手伝っているのか単につまみ食いをしたいのか、亜依と希美によってチキンや
スパゲティーといったお決まりのパーティー料理がテーブルに並べられる。
「いいよねえ、2人は朝高に合格が決まってるようなもんだもんねぇ。」
「ねぇ〜、うらやますぃ〜。」
「まあまあ、2人とも嫉んでないで、やることやれば大丈夫だって。」
梨華の言う通り中3コンビもこのところメキメキと実力をつけてきてはいるものの、受験生の冬は
死ぬほど寒い。指定校推薦権を持つ亜依と希美に恨み言の一つも言いたくなるというものだ。
「「おまたせ!」」
けたたましい音を立てて遅れてやってきた2人。
「おっそい!なっちと明日香は一応本日の主役なんだからね。」
大きな目を更に大きく見開いて怒鳴る圭、しかし、緩む頬は抑えられない。
誰にとっても、一度失いかけたものを再び手に入れた喜びは計り知れない。
かけがえのない時間、喜びも悲しみもまっすぐに伝える声、そして、大切な人の笑顔。
「おっ、やっとるな!」
「ちょっと姉さん、声が大きいよ!」
「ごめんね、着いて来るって聞かなくて・・・」
すでにほんのりと紅い顔をして、嬉しそうにシャンパンとケーキを抱える姿は、
クリスマス特有の酔っ払いスタイルだが、2人ともこれでもれっきとした高校教師だというから
世も末である。
「あっ!平家さんも来た〜、あはっ。」
「うん?なんか未成年の酔っ払いもおるみたいやけど、どうなってるんやこの店は?」
「そういうことはツケをきっちり払い終わってから言っていただきましょうか、お二人さん。」
「ウチなんも言うてないがな・・・」
女三人寄ればなんとやら・・・それが14人ともなると普通の方法で収拾をつけようというのが無謀なのか、
やっとのことで静けさを取り戻した店内には、床にソファーに酔いつぶれて転がる未成年の山。
「あ〜あ、こんなんばれたら大問題やで、ウチなんか来年度からの正教員が決まったところやのに。」
「まあ、ウチら2人が黙っとたら大丈夫やろ。」
乱れ放題のテーブル席に見切りをつけて、カウンターに移動したアダルトチームは
まだ呑み足りないとばかりに、彩秘蔵のジンをあおる。
「それにしても祐ちゃん、今回楽しすぎじゃないの?」
「・・・まあ、たしかに今回一番しんどかったんはなっちかも知れんけど、
黙って見てるゆうのもキツイもんやで。
にしても、圭織たちはホンマ期待を裏切らんよな。明日香呼び戻すとこまでするとは正直恐れ入ったわ。」
「しかも、報告会前日にあっちこっちのクラブから情報集めたんもあの子らやろ?
あのメンバーが来年の生徒会役員やるかと思うと、先生側としてはちょっと怖いな。」
「なに弱気なこと言うてんねん。それに生徒は先生の敵やないやろ?
どんなに賢うても、弁が立っても生徒は生徒、着かず離れず、ええ距離で見守っていかな。」
「生徒に手出してる先生が何言ってんだか。」
彩の言葉が聞こえたかのように、寝返りをうったなつみに3人の視線が集まる。
童女のようにすやすやと寝息を立てるなつみ。
深くしゃがめばその分高く飛べる。
人の幸せも我慢した分だけ、たくさん手に入れられればいいのに
そんなことを考える自分があまりにも自分らしくなくて思わず笑ってしまった。
「どないしたん、姉さん?」
「ハハッ、どうもせいへんよ、ただ・・・ただな、クリスマスやねんなって。」
いつもよりも幸せや愛について想うのは、今日が特別な日だからかもしれない、
けれど、この想いだけは窓の外の雪のように消えてしまわないように
225 名前 : 名無し読者 投稿日 : 2001年09月25日(火)15時46分15秒